2014年、米ミシガン州立大学の研究グループは、長年の研究の結果として以下のような事実を発表した。

「人は努力しないと天才的な技能は習得できない。しかし、努力も遺伝の影響だった」(努力できるかどうかすらも遺伝で決められていたという事実

これは表立って誰も指摘しない事実だが、多くの人は経験則としてそれを知っている。特に大勢の子供たちと接する教師は、それを実感するという。

世の中は、努力ができるかどうかで「より良い生活」ができるかどうかにつながるのだが、遺伝的に、性格的に、気質的に、どうしても努力できない人がいるのである。

努力すれば何とかなる局面でも、努力しないのでなし崩しに落ちぶれていく。そして、必然的に社会の底辺にまで行き着く。

つまり貧困に転がり堕ちたのは、社会が悪いのではなく、出自が悪いのではなく、親が悪いのではなく、環境が悪いのでもなく、病気のせいでもなく、ただただ「本人が悪い」と言うしかない人が存在する。

運の良し悪し以前に、やるべきことを何一つしないで困窮するタイプの人が世の中にはいるのである。救済の手を差し伸べても絶望的なまでに浮上できない人であると言える。


本人が努力もやる気も見せないので何ともならない


社会の底辺に堕ちた人というのは、一様ではない。

才能と向上心と努力の塊のような人でも、何らかのきっかけで社会の底辺に堕ちても不思議ではない。

たとえば、資金繰りのミスで立ち直れないほどの損害を抱えたとか、共同経営者に騙されたとか、深刻な病気になったとか、家族との関係に問題が起きたとか、いろんな原因で信頼や財産をすべて失うようなことは珍しくない。

溢れるような才能があっても、金融リテラシーに欠けていて生活が困窮したとか、アルコールやドラッグで身を持ち崩したとか、世の中にはいろんな転落があるのだ。

しかし一方で「転落した」のではなく、最初から努力することも向上心を持つこともないまま、堕ちるべくして社会の底辺に堕ちる人も存在する。

まさに「自業自得」という言葉が、そっくりそのまま当てはまる人である。

「もう少し向上心を、もう少し努力をしたら何とかなる」とまわりから思われ、指摘され、更生のアドバイスを受けるのだが、それでも向上心も努力も持てずに為すがままに生きる。

だから、どん底まで堕ちる。

社会の底辺では、パチンコ屋でタバコをふかしながら「金がたまらない」と言い、仕事を探す努力もしないで「金に困っている」という人もいる。

悪癖を指摘されてもそれを止める努力をするわけでもなく、止めさせられてもまた悪癖に戻る。あるいは、第三者が必死で仕事を見つけてあげて仕事に就かせても遅刻や無断欠勤をしたあげくに勝手に辞めてしまう。

もちろん、本人が一番困ることになるのだが、本人よりもまわりの方がやきもきして世話を焼くことも多い。しかし、何をしても本人が努力もやる気も見せないので何ともならない。



貧困に転がり堕ちると言っても、様々なタイプがある。社会が悪いのではなく、出自が悪いのではなく、親が悪いのではなく、環境が悪いのでもなく、病気のせいでもなく、ただただ「本人が悪い」と言うしかない人も当然のことながら存在する。

どん底に堕ちても「何もしない」という特徴を持つ


普通の人には、家賃が払えなくなるとか光熱費が払えなくなるというのは「一大事」なので、何としてでも金を集めるために努力する。

しかし「困った」と思いながらも、特に何もしないでその日を迎える人も世の中にはいる。破滅が分かっていても、何もしないのである。そこを乗り越えなければ終わりだと分かっていて乗り越えない。

感心してしまうほど向上心が欠けている。未だかつて一度も自分の人生で向上心を持ったこともないのではないかと思うほど向上心がない。

努力しないのでどん底まで落ちぶれる。社会の底辺に、堕ちるべくして堕ちる。自分で自分を何とかすることができないので、事態が悪化しても何もしない。

「まずいことになった」というのは分かっているのだが、そうなった原因を究明し、反省し、対策を立案し、解決に向けて実行するという基本的な方針が人生にない。

そんな基本方針があれば最初からどん底にまで堕ちることはないのだが、どん底に堕ちても何もしないというのがこの種のタイプの特徴でもある。

助けを求めることもない。なぜなら、困ったから何とかしようとする発想そのものがないからだ。今までそうしたこともないのでコミュニケーション能力も備わっていない。

合理的に考えることも、合理的に行動することもない。社会を理解しようとすることもない。

社会の底辺には、ある一定数でこのようなタイプの人たちがいて、だからこそすべてを失ってホームレスになっている。

本人の努力ではいかんともし難い苦難に見舞われて転落した人と、最初から何もしないで堕ちるべくして堕ちた人が貧困社会の中に混在している。



ホームレスにまで転がり堕ちた人は、誰がどのような理由で転がり堕ちたのかは外からは分からない。人の人生にはいろんな形がある。

「救済できない人がいる」というのは不都合な真実


社会で生きる力が備わっていない人であっても、全員が全員ともホームレスになって困窮するわけではない。その人が資産家の息子や娘であれば、親が一生涯養って何事もなく生きて死んでいくことになるだろう。

資産家の家庭でなくても、親が年金をやりくりしながら駄目な子供を養うかもしれない。こうした親を持っていれば、親が子供の代わりにやりくりするので子供は何も考えないで転落もせず生きられる。

しかし助けてくれる人がいなければ、あっと言う間に社会のどん底に堕ちていく。

多くのNGOはこうした人をさえも救済しようと手を差し伸べるのだが、ほとんどは徒労に終わることになる。最終的に自立できるだけの力が備わっていないので、助けても助けてもずるずると駄目になるからだ。

何もできない人を助けるにも限度がある。そのため、救済はやがて途切れて、再び社会の底辺に向かって沈没していく。

こうした人々は、いつの時代でも、どこの国でも、どんな社会システムの元であっても、性別も関係なく存在する。いかに社会システムと福祉を充実させても、何ともならない人であるとも言える。

つまり、これは何を表しているのかというと、貧困は社会の責任とはまた別の次元で発生するということを意味している。

本当に何もできない人が世の中にいて、そういった人たちの一定数が社会の責任とはまったく関係のないところで必然的に堕ちていくのだ。

本当に「貧困に堕ちたのは本人の責任」と言うしかない人が存在する。しかし現代社会は、それを指摘するのはタブーになるのかもしれない。

貧困撲滅という美しい社会システムの構築には「救済できない人がいる」というのは不都合な真実であるし、それを認めてしまったら貧困層を救済する大義名分が消えてしまうかもしれないからだ。

また、自業自得で救えない人がいると社会が認識してしまったら、救えるはずの貧困層も「放っておけ、どうせ救えないのだから」という話になってしまう危険がある。

そのため、「本人の性格・気質のためにどうしても救済できない人がいる」という事実はやんわりと隠される。



大阪あいりん地区。ここでは、本人の努力ではいかんともし難い苦難に見舞われて転落した人と、最初から何もしないで堕ちるべくして堕ちた人が貧困社会の中に混在している。



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