2017年1月に入って、厚生労働省がデータを出してきているのだが、生活保護受給者は現時点でもますます増える一方となっていることが報告されている。

生活保護に対する不正受給事件もあって、世間の目がとても厳しいものになっているのは事実だ。現場でも受給者の締め付けが厳しくなっているという声が多くなっている。

しかし、それでも生活保護受給者はどんどん増え続けており、今後も「減ることは考えられない」という状況になってしまっている。

2016年10月に生活保護を受けた世帯は163万7866世帯なのだが、これは3ヶ月連続の「過去最多」であると言われている。高齢層が生活破綻していき、生活保護を受けるしか生きていく手段がないところにまで追い込まれているのだ。

世の中が二極分化しており、富裕層が億単位で収入を増やしているのと並行して、貧困層は半年で約2万人単位で極貧に落ちている。

これは外国の話をしているのではない。日本の話をしている。株式資産を持っている人間は、2013年からの数年間でどんどん資産を膨らませた。

しかし、日本人で株式を資産として持つ人はほとんどいないので、むしろ時代に取り残されている人の方が多い。


日本人が、そろそろ気づかなければならないこと


すでに生活保護受給者の51%は高齢層が占めている。

高齢層は支給される年金で食べていけず、貯金を取り崩しながら生きるしかないのだが、多くの高齢者は貯金の取り崩しが想定よりも大きいことに驚くという。

夫婦で暮らしていると、どちらかが病気になれば一方は貯金をすべて投げ打ってでも助けようとする。子供が困っていれば、やはり自分たちのことよりも子供を優先して助けようとする。

家があったらあったで修繕費がかかり、家がなければないで家賃がかかる。かくして、なけなしの貯金はどんどん切り崩されて10年も経ったら1000万円くらいはあっと言う間に消し飛んでいく。

もっとも、最初から1000万円という貯金など持っていない高齢者も多い。たとえば、高齢独身女性は追い詰められていることが多い。

日本で独身女性は社会的地位が低く見られており、年齢が上がると正社員で雇われることもほとんどないので、元々貧困率が高い。こうした女性が高齢化するとますます貧困の度合いが深まる。

独身男性も悲惨で、高齢で働けなくなると一気に孤立化して社会から見捨てられていくことになるという。

社会から見捨てられると、孤独の中で貧困に苦しみながら「ただ生きているだけ」の生活に陥るわけで、毎日テレビだけを点けてぼーっと暮らしている生活と化す。

こうした高齢者の保護を行っているNGO団体によると、「このままでは9割の高齢者が孤独なまま貧困化したとしても不思議ではない」と警鐘を鳴らしている。

社会から見捨てられていく高齢層と、こうした高齢層を救済するための社会福祉費の増大によって、日本の貧困の現場はますます深刻化していくことになるだろう。

そうなると「国は何をやっているのだ?」「政治は何をやっているのだ?」という話になって、いかにこうした人々を救済するかが議題になるのだが、日本人はそろそろ気づかなければならないことがある。

「もう時間切れになったのではないか?」という点を……。

「救済されるもの」から「放置されるもの」になる


1990年代以後、日本の財政赤字はどんどん膨らんでいった。そして、この財政赤字を穴埋めすべく、国債が増発され続けて今に至っている。

かくして、日本の国家予算における国債発行額の比率は40%という水準にまで達している。2015年末の計算で、国の借金は1044兆円になったと言われている。

これは国内総生産(GDP)に対して2倍を優に超えるほどの巨額の借金であり、先進国の中でも最悪である。にも関わらず、日本は少子高齢化が突き進み、貯金の取り崩しが起きて、国の借金の担保が減少していく最中にある。

言うまでもないが、借金というのは政権が変わったから消えるというものではない。借金は返せないと膨らむものであり、しかも金利はどんどんキツくなり、解決不能に近づいていく。

こうした中で、日本人の貧困層はどんどん膨らんでおり、若年層から高齢者までが等しく貧困に苦しむようになってきた。

日本に貧困問題が発生してから20年以上経ち、それは「解決しなければいけない」と言われながら放置され続けて来た。

そして、国家予算の57%が社会保障費と化した今、「日本の国家財政は限界に達したのではないか?」と言われるようになっているのだ。

「今後も貧困層は増えるのは確実なのだが、もう国は助けられなくなっている」ということだ。ない袖は振れない。

貧困層を救済するにも、無限に救えるわけではなくどこかで限界が来る。その限界に達した可能性が噂されるようになっているのである。

つまり、これから起きるのは「貧困者はこれからも増えるかもしれないが、もう国は貧困者を助けられない」ということである。助けられないのであれば、見捨てるしかない。

日本の貧困問題は、今後「救済されるもの」から「放置されるもの」になり、相対的貧困という曖昧な貧困から、絶対貧困へと貧困の度合いが深まっていく可能性が高まっている。

私は、実はスラムにそれほど悪印象は持っていない


2016年10月、私は大阪の「あいりん地区」に泊まったが、こうしたかつてのドヤ街は今は高齢者の福祉の街として機能するようになっているのを確認した。

皮肉なことだが、今後の日本に必要なのはハイセンスで小洒落た街ではなく、スラムの方ではないかと私は強く考えている。

これから日本人全体が貧困化していくのに、ハイセンスな街ばかりできても仕方がない。

需要があるのは、ボロボロでも安いアパートがひしめき、貧困層を相手にした激安の食材を売る店があり、屋台が安い一品を売ってくれて、汚れた服を着ても誰も文句を言わない同じ貧困層が住んでいる街だ。

貧困層が放置されるのであれば、逆に言えば貧困層が貧困のまま暮らせる街が必要となってくる。

それがスラムなのだ。

日本はスラムを駆逐した国なので、多くの日本人はスラムと言えば否定的な見方しかない。しかし、東南アジアやインドでスラムを見て来ると、スラムはスラムで実は大いに存在価値があることに気付く。

スラムは何もかも劣悪なのだが、貧困が放置される国ではスラムこそが貧困層の救済として機能するようになるのである。そこでは衣食住すべてで安い物が揃い、同じ環境の人間がひしめいて相互扶助も成り立つ。

貧困層が見捨てられたら自分たちで何とか生きていくしかないが、その「何とか生きていく」という環境がスラムには構築されるのである。

もちろん、貧困層を見捨ててスラムに押し込めよと言っているのではないし、スラムが素晴らしいところであると言っているわけでもない。

しかし、貧困層が必然的に見捨てられてスラムが形成された時、それは必ずしも絶望を意味するわけではなく、むしろ貧困層のしたたかなサバイバルとして機能する一面もあるという点を気付く日本人がいてもいいと思う。

そういった意味で、貧困が救済できない社会となりつつある日本には、貧困地区やスラムは逆に必要ではないのかと私は強く感じるようになっている。

今はまだ暴論だと思われて批判される考え方かもしれないが、東南アジアや南アジアでスラムに沈没していた私は、実はスラムにそれほど悪印象は持っていない。

どこの国でも必要悪としてスラムを持っている。日本にスラムがあっても不思議なことではないし、いずれは貧困層が救済できなくなった時、スラムは自然発生的に生まれ、育ち、定着することになるはずだ。

スラムが、必要になるのである。



プノンペン・トゥールコック地区のスラム。ここは、カンボジア時代(売春地帯をさまよい歩いた日々:カンボジア編)の私が最も愛したスラムだった。


プノンペンの郊外は、バラック小屋で作られた建物に、貧しい家族がひしめき合って暮らしていて、スラムの中だけで必要なものは何でも揃った。私はここに入り浸った。


バングラデシュも、郊外に出たらスラムみたいなところに大勢が大きな兄弟のようになって暮らしている。全員がそれぞれ仲間であり、助け合って暮らしている。


貧困地区には、貧困地区のビジネスがある。野菜は安く、意外に新鮮で、溢れる食材に貧困が感じられない。


スラムから外れた市場なのだが、食材も驚くほど安いのでスラム住民以外の人たちまで買い物にやってくる。貧困層が国や社会から放置されるようになった時、スラムが貧しい人々を吸収し、相互扶助が始まる。東南アジアや南アジアでスラムに沈没していた私は、実はスラムにそれほど悪印象は持っていない。



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