私は20歳で東南アジアの貧困街に居つくようになり、そこで人生を破滅させていく男たち、女たち、あるいはずっと貧困で苦しむ人々「だけ」を見つめて過ごしてきた。

私のまわりにいた人たちは、社会の落伍者、失敗者、堕落者、犯罪者でいっぱいだった。

社会的に成功した人たちなど、私が知り合った中でほとんど皆無であったと言っても過言ではない。今では、たまに表社会のまともな人に会うこともあるが、基本的に私は社会の底辺の人たちだけしか知らない。

社会の底辺は、精神的に荒廃した人も多く、堕落と自暴自棄で満ち溢れている。そのため、私の目の前には、常に現在進行形で破滅していく人たちでいっぱいだった。

彼らを見ていて、私は時には「明日は我が身だ」と恐怖でいっぱいになり、時には「何とかならないのだろうか」と涙を流したこともしばしばある。

特に私は貧しい生活の中で売春に明け暮れている女性とばかり付き合ってきたので、彼女たちが毎日毎日、切羽詰まった生活をしているのは知っていた。

自分の知っている女性が、貧困でもがく姿が哀しかった。彼女たちの、地を這ってもがく人生を見つめるだけで、私は数十年を費やしたと言っても過言ではない。


社会的な成功とは逆の方角に向かって走り出す気質


しかし、東南アジアを中心に、世界中をふらふらして社会の底辺を見つめて私がすぐに気付いた哀しい事実もある。

それは、本当は誰もが知っていて敢えて言わない事実、「貧困は消えない。救えない貧困者もある」というものである。

政府がどのように救済措置を与えても、どこかの団体がどのように救済に尽力しても、国が豊かになっても決して変わらない事実である。

人生のごく早い段階で、私は「貧困を撲滅するというのは不可能である」という結論に至っている。さらに、「格差の是正も不可能である」ということにも気付いている。

なぜか。それは、貧困に向かって転がり落ちる気質を背負っている人間がいるからだ。

私のように、何があっても他人に干渉されたくない一匹狼も少なくない。病気になろうが、貧困に堕ちようが、他人の世話になりたくないと思う根っからの一匹狼は珍しくないのだ。

あるいは、自暴自棄で破滅的に生きるのが習い性になっている社会不適合者もいる。粗暴で、暴力的で、犯罪を犯すのが日常になっている人もいる。

知能指数が平均よりも低く論理的に考えることができない人も当然いる。そうかと思えば、「働くのは負けだ」と思って他人に寄生することしか考えていない怠惰な人間もいる。

他にも、極度なまでに内気で弱気で恐怖症で、普通に生きられない精神状態の人もいれば、心身に大きな障害を持っている人もいる。

五体満足なのに、アルコール、ギャンブル、セックス、ドラッグ等を止められないし止めるつもりがない人間もいる。浪費癖、借金癖のある人もいる。

こうした人間たちは、金を与えようが、良い環境を与えようが、何をしようが、結局は自分の気質に合わせて再び社会の底辺に向かって転がり落ちるのである。

いくら救済しても無駄だ。本人の気質が社会的な成功とは逆の方角に向かって走り出すのである。

そんな人間がいるわけがないと思うのは、教育をきちんと受けて、自分も回りもまともな人しかいない世界だけで生きていた人たちだろう。

私の人生で言うと、堕ちるべくして貧困に堕ちたような人たちが珍しくなかった。



本当は誰もが知っていて敢えて言わない事実とは何か。それは、「貧困は消えない。救えない貧困者もある」というものである。

何をどうしても、自ら貧困に堕ちてしまう人がいる


手間をかけて助けても、温かい手を差し伸べても、行政が支援しても、貧困から逃れられない気質の人は山ほどいる。

NGOが食事を与えたら、温情に目覚めて貧困から脱することができるとか、カウンセリングして仕事を与えたら人生が更生できるとか、そういったストーリーはよく聞く。

しかし、それで救済される人間は、ほんの一部であるという事実はもっと知られるべきかもしれない。本当のことを言うと、そんなことをしても救済されない人の方が多い。

自暴自棄な人間は助けてもらってもすぐに破滅的な行動をして救済を無に帰してしまうだろう。怠惰な人間は目を離せばまた仕事も努力もしなくなるだろう。

もともと知的能力が低い貧困者は、助けてもすぐにまわりに騙されてしまう。依存癖がある人間は助けてもしばらくするとまたアルコールやギャンブルやドラッグに溺れていく。

「貧困を自己責任のせいにするのは冷酷だ」という社会正義の強い人たちの声はとても大きくて力強いのだが、実のところ、自己責任と言うしかない理由や気質で自ら貧困に堕ちていく人の存在も間違いなく存在するのである。

「救済は無駄なのでしなくてもいい」と言っているわけではない。「救済できない人がいる」と言っている。何をどうしても、自ら貧困に堕ちてしまう人がいるのだ。

貧困が解決できないというのは、そういうことだ。

社会全体が不況に堕ちたり、グローバル化で仕事が消えたり、非正規雇用が増えたり賃金が下がったりして食べていけなくなるだけでなく、個人の気質が社会に合わないで貧困に堕ちるべくして堕ちていく人もいるということだ。

人間の生き方、考え方、性格・気質は驚くほど多様である。社会でうまく生きていくことができる気質の人もいれば、そうではない人もいる。

こうした人間の多様性を認めるというのは、すなわち貧困に堕ちている人がいるという現実を認め、貧困で生きることをも多様性のひとつとして認めるということでもある。



人間の多様性を認めるというのは、すなわち貧困に堕ちている人がいるという現実を認め、貧困で生きることをも多様性のひとつとして認めるということでもある。

現実を直視する人は全員が持たなければならない視点


貧困が解消できないのは、明確に「自分のせい」というしかない人が存在する。そうであるならば、経済的な格差もまた自ずとして開いていくというのも理解できるはずだ。

そして、何をどうしてもその格差は縮まることもないという現実も認めざるを得ないはずだ。

毎月、少ない給料からコツコツと2万円を貯めて、年間で24万円、それを40年以上続けて1000万円にする堅実な人もいる一方で、同じ給料をもらって毎月きれいに使い果たして40年経っても貯金がゼロの人もいるはずだ。

同じ条件の人であっても、40年後には1000万円ほどの差となって現れてくる。では、貯金ゼロの人が1000万円貯まらなかったのは社会が悪かったのか。

同じ条件で1000万円を貯めた人から見ると「社会が悪いのではない。貯めなかったお前が悪い」という話になるはずだ。

毎月2万円を貯めるのを40年も継続するというのは凄まじい努力である。それは誰にでもできることではないと言えばそうかもしれない。

しかし、金を貯めることができる人というのは、本来であれば使ってしまう出費を抑え、切り詰め、自制し、節約して小さなお金を積み上げるという努力を成し遂げる気質を持っている。

自制と節約が徹底できる人もいれば、そうでない人もいる。

これもまた性格や気質に寄るところが大きい。同じ仕事、同じ給料をもらっていても、貯金が貯まるかどうかは人によって違っており、それが「格差」になっていくのである。

つまり、格差の是正もまた不可能であり、どんなに金持ちに懲罰的な累進課税をかけたとしても、格差が消えることは絶対にない。

「貧困を撲滅するというのは不可能であり、格差の是正も不可能である」というのは、現実を直視する人は全員が持たなければならない視点であると言える。

助けることができない人がいる。

だから、私たちがせめてものしなければならないのは、自分の性格や気質をよく見つめ、その中で最底辺に堕ちないように予防線を張っておき、できる範囲でより良く生きることである。

あと、格差是正の行政支援やNGO団体の行動はそれが無駄であることも理解しながらも、否定はしない方がいい。

自分が貧困に転がり堕ちたら、それで助かるかもしれないのだから……。



あるインドの売春地帯の女性の部屋。極貧の部屋だが、これでも彼女は売春宿では成功している方だった。いろんな持ち物を持っている。私たちがせめてものしなければならないのは、自分の性格や気質をよく見つめ、その中で最底辺に堕ちないように予防線を張っておき、できる範囲でより良く生きることである。



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