人間が何らかの「対象」を認識すると、どうなるか。最初はバラバラで混沌としているものであっても、やがてはそれが整理されて「統一」や「集約」に向かう。
それは、誰かの意思だとか陰謀だとかではない。恐らく、人間の持っている本能が為せるものなのだろう。自然と、認識したものを整理し、混沌としたものを画一化してしまう。
文化も、宗教も、ビジネスも、すべてがそうだ。混沌として無限にあったバリエーションは、やがてそれぞれが統一され、廃棄され、どれかに集約されていく。
衣服もそうだ。暑い国の人間も、寒い国の人間も、国際社会が「男は背広」と決めたら、みんな背広を着るような集約を見せる。
言葉もそうだ。世の中がグローバル化すればするほど、英語や中国語のような覇権を持った国の言葉に弱小国がなびいていき、そうでなくても単語などが統合・集約されていく。
世界は驚くほど狭くなり、驚くほど同じになった
ならば、いっそのこと、文化や哲学や国でさえも、「たったひとつにしてしまえばいい」という「ワン・ワールド主義」を主張する人が出てきてもおかしくはない。
たとえば、言語もすべて英語で統一されたら、世界中の誰もが意思疎通に悩むことがなくなる。
宗教もひとつに統一されたら、宗教戦争もなくなる。
食べ物に関しても、人間が食べていい肉はチキンとポークとビーフだけで、それ以外は野蛮でゲテモノだと決めてしまえば、クジラ論争も犬食論争もなくなる。
建物に関しても、国際規格で材料や作り方を決めてしまえば、世界中どこでも同じ住居環境が保証されて、どこに住んでも戸惑うこともなくなっていく。
何もかも効率的になる。
効率的になれば、どうなるのか。世の中は、もっと発展するかもしれない。無駄がなくなるからだ。世の中は今、その方向に向かって暴走していると言ってもいい。
インターネットが全世界を覆うようになってから、さらにこの動きは加速している。世界は驚くほど狭くなり、驚くほど同じになりつつある。
最近は、海外のどこに行っても大都会は同じような印象しかない。だいたい先進国も途上国も同じ印象だ。
見回すと、マクドナルドがあって、スターバックスがあって、飲み物を頼むと、コカコーラがあってペプシがある。
フィリピンではマクドナルドの代わりにジョリビーというファーストフードチェーンがある。ジョリビーで時間を潰していると、異国情緒が味わえるだろうか。
味わえるわけがない。マクドナルドを真似てできているのだから、基本的にはアメリカ文化の類似品だ。
うっかりすると、自分がどこにいるのか分からなくなってしまうほどだが、その既視感はさらに強まっていく可能性がある。

今どきニューヨークの摩天楼を見て驚く外国人はいない。どこの国でも同じ光景が当たり前にあるからだ。
「生き残れるか、死ぬか」の二択しかなくなる
効率化を求める文化というのは、常に統合・集約された画一化された文化である。多くのものは画一化してしまう。
いろいろなものが世界中で統合・集約されて画一化が猛スピードで進んでいく。その結果、効率化が促進されて世の中はどんどん便利になっていく。
しかし、ここにワナがある。「画一化のワナ」だ。すべての人が「同じ」になったとき、それが不利な環境になったとき、全員がまとめて死んでしまうということである。
たとえば、オーストラリアに棲息するコアラは今、絶滅危惧種に指定されている。
なぜか。長い進化の中で、コアラはユーカリの木を食べる種に統合・集約されていったが、そのユーカリの木が減っているからである。
ユーカリの木が大量にあったとき、ユーカリの木だけを食すという画一化はコアラの生存に最適な選択だった。しかし、それに画一化された結果、ユーカリの木が減少すると共に、コアラも減少せざるを得なくなった。
コアラが雑食であれば、ユーカリの木が激減しても他のものを食べればいいのだから、何の問題もなかった。しかし、ユーカリに「最適化」されてしまった結果、もはやユーカリと共に絶滅していかなければならない運命と化したのである。
画一化されてしまうと、環境が変わってしまったとき、「生き残れるか、死ぬか」の二択しかなくなってしまう。これが「画一化のワナ」である。
地球環境は一定していない。氷河期が来たり、温暖化が来たり、多雨になったり干魃になったりする。ジャングルが砂漠になったり、海が山になったりすることもある。
環境が激変したとき、対応できる種が残っていないと「全滅」が待っているのである。

ユーカリの木に最適化したコアラは、ユーカリが消滅すると絶滅する
長い目で見ると、多様性が必要になる局面が来る
人間もひとつの方向性に統合・集約され過ぎたとき、環境が変わったら生き残ることが不可能になる。画一化が頂点に達したとき、環境がひとつ変わると全滅するからだ。
たとえば、名前という概念を考えて欲しい。全世界で、読むことも書くこともできない難しい名前があったら非効率なので、名前が統合・集約されていくとする。
それが極限にまで達し、アジア人は「リー」、欧米人の「スミス」に統一すればいいという話になればどうだろうか。
効率的だが、その時点で名前という概念は意味をなくして消えていく。何でもそうだが、十分な多様性が残っていないと逆に大きな問題になる。
美しさの概念が画一化されて、女性がみんな整形手術で「同じ顔」になってしまったら、どうなるのか。判別もできなくなってその美自体が意味をなくし、さらに美の概念が変われば全員が見捨てられる。
哲学でも同じだ。何らかの「原理主義」が世界を支配したとき、それに反する事実は、それが重大な発見・発明であったとしても握りつぶされて発展が止まる。
ヨーロッパもキリスト教原理主義が極限に達した「中世」では、文化も哲学も停滞し、地球が回っているという発見ですらも冒涜となった。
イースター島ように、神を称えることだけが唯一絶対になると、そのまま自滅してしまう可能性もある。(イースター島の惨劇。人口増加、自然破壊、食人、文明崩壊)
多様性を失ったら絶滅する例は多い。現代文明も何かに対して多様性を失って、いつかは消滅してしまうだろう。どの画一化が「消滅の原因」になるのか分からないが、何かの画一化が引き金になるのは間違いない。
画一化は効率を呼び込むのだが、それが純化されてしまうと「生き残れるか、死ぬか」の二択になるというのは重要な認識だ。画一化のワナに落ちると最悪の事態になる理由がここにある。
それだからこそ環境が激変したときに消滅の危機に陥らないように、多様性をあちこちに残していなければならない。
グローバル社会は、人類に統合・集約とその結果としての画一化を促進するが、長い目で見ると、逆に多様性が必要になる局面が必ず来る。
ならば画一化一辺倒でなく、言語が違ってもいいし、文化が違ってもいいし、哲学が違ってもいいし、食生活が違ってもいいし、着ているものが違っても、ある程度は許容すべきものでもある。
美しさの概念が違ってもいいし、対立構造があってもいい。言語も、文化も、気質も、哲学も、何もかも多様であったほうがいい。純度100%は、危険なのである。

世界はどんどん狭くなり、統合・集約されて多様性を失いつつある。
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