時々、トゥーというカンボジアの売春地帯にいた可愛らしい娘のことを思い出して、不覚にも涙することがある。

純粋で、健気で、弟思いだった彼女は、嵐が来れば吹き飛びそうなプノンペン北部トゥールコック地区の、粗末なバラック小屋で暮らしていた。

彼女は売春地帯に売り飛ばされた女性だった。

私は柄にもなく、何とか彼女を救い出したいと思い、いったいいくらで売り飛ばされたのかと彼女に尋ねた。そのとき、愕然としたのだった。

彼女は、自分がいくらで売られたのか分かっていなかった。また、彼女は計算ができなかったので、今までどれくらい稼いで、あとどれくらい働けば解放されるのかも、分かっていなかった。

彼女は自分の人生で起きていることが何ひとつ見えていなかったのだった。(バイバイ・トゥ。置き去りにしてきた彼女を思って慟哭する


教育がなければスタート台にも立てない


それまで私は、貧困に落ちる人と、そうでない人の差は、「よく働くか、そうでないか」の差だと漠然と思っていたのだが、トゥーと知り合ってから、そうではないことに気がついた。

売春地帯に売り飛ばされたトゥーは、なぜ這い上がれないのか、その原因は明確だった。

彼女は教育がなかった……。

彼女は、よく働く女性だった。しかし、計算ができず、字も書けなかった。

だから、どんなに搾取されても気がつかないし、代わりに計算して証拠を突き出すこともできない。いつまで経っても彼女はそこから足を洗うことはできない。

では、彼女がそこから救い出され、何か他の仕事をすることになったとしたら、彼女にはどんな仕事ができるだろうか。

自分の名前も書けず、計算もできない女性に、どんな仕事があるというのだろうか。お金の価値も、おつりの計算もできない彼女は、ウエイトレスすらもできないだろう。

これは、切ない事実だった。

カンボジアでは、もうひとり印象的な女性を覚えている。

その女性も字が読めない女性だったのだが、彼女はもらったお金を数字ではなく、「図柄」で判断していたのである。

だから、5ドルを、見たことがない5ドル札では受け取らず、1ドル札を5枚受け取るほうを選んだ。(マティーニに巣食う女郎蜘蛛。図柄で金を判断していた女性

こういった女性たちをたくさん見てきたので、貧困に落ちる人とそうでない人の差は「よく働くか、そうでないか」の差ではないことに気がついた。

よく働く、働かない以前に、教育がなければスタート台にも立てないのである。

そして、その教育も、どこまで教育を受けるかで、どこまで世の中が見えるかが決まることに気がついた。


貧困の中で、教育を受けられない子供たちは、社会に出たときにはスタート台に立つことすら不可能だ。

教育がなければ、本当に何も見えない


日本人の多くは気がついたときから義務教育を受けており、基礎的な教育がなければ永遠に底辺にいるしかないという事実には気がつかない。

字の読み書きは当たり前にできるので、「教育がなければ見えない」という事実も見逃すはずだ。

「見えない」というのは比喩ではない。教育がなければ、本当に何も見えないのである。

たとえば、私たち日本人は普通は、タミル語もシンハラ語もアラビア語も読めない。だから、スリランカやサウジアラビアに行って街を見回しても、看板も、雑誌も、新聞も、何も分からない。

アラビア語で何か重要なことが書いてあっても読めないのだから、何も分からない。その結果、それが読める現地の人たちが「見えている」ものが私たちには見えない。

「地雷に注意」と書かれてあっても、私たちは何も読めないからそこら中をほっつき歩くかもしれない。知らないと、見えないのである。

日本にいても、同じ日本人同士で「見えない」ことはたくさんある。

たとえば、何らかの建物を見て専門家は「この家屋は手抜きだ」と気がつくことがあるかもしれない。しかし、普通の人はそれが「見えていない」ということはある。

専門家が、財務諸表を見て「この会社は危ない」と気がつくことがあるかもしれない。しかし、普通の人はそれが「見えていない」ということはある。

それ相応の教育がなければ「見えない」のである。

数字が読めないから図柄で1ドルだと理解する女性と、私たちは時に同じ立場に立つ。知識とは教育で得るものであり、その教育がなければ、最初から物を見ても見えない。


カンボジア・トゥールコック地区のスラム街。トゥーはベトナム人だったが、売り飛ばされてカンボジアにやってきて、ここで売春ビジネスをしていた。

教育がないと、そもそも取捨選択すらもできない


教育を受けないと、情報を受け取れない。そして、情報を受け取れないと、物事が理解できなくなる。すなわち、物が見えなくなってしまう。

目の前にあっても、価値も分からず、理解もできず、存在が目に入ってこないのである。情報を受け取る差が、教育の有無で違ってくる。

そして、あまりに受け取れる「情報の差」が違い過ぎると、もはや住んでいる世界すらも違ってくる。

その差は、たとえて言えば、白黒テレビとカラーテレビを見ているほどの差になるのではないだろうか。

もちろん情報と言っても、役に立つ情報もあれば役に立たない情報もあるので、何でもかんでも受け止められる方が良いというわけではない。

しかし、基本的な教育がないと、そもそも取捨選択すらもできない。

基本的な教育を受けていないというのは、そういう意味で社会で生きていく上で大きなハンディを負っているのも同然だ。

途上国の問題は、貧困で教育を受けられない子供たちがたくさんいるということだ。基礎教育を受けられずに、文盲を余儀なくされた子供もいる。

それがどんなに残酷なことなのかは、文盲の人たちと接したことのない人は、恐らく分からないと思う。

騙されても分からない。搾取されても分からない。自分の人生なのに、自分の身に起きていることも分からない。深い思索もできない。計算ができないので、将来設計も立てられない。

そういう人生になってしまう。

教育を受けられずに社会の底辺に突き落とされていたトゥーのことを思って、彼女はどうしているのかと今でも思う。

忘れられない。


這い上がるためには、教育がいる。教育のためには金がいる。しかし、教育がなかったために、その金がない。



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