インターネットは社会の多くを変革してきたが、「出会い」についても大きなインパクトを与えてきた。

人々は今や自分の友達ばかりか、恋人や配偶者や不倫相手や風俗での性サービスの相手までもインターネットで選ぶようになっている。

どのように選ぶのか。それは、「人間の情報化」によって成し遂げられる。分かりやすく言えば、人間のカタログ化である。

人間のカタログ化と言えば、何か実に無味乾燥な世界をイメージするが、すでに人々は自らをカタログ化しており、それを異様だとも変だとも思っていない。

たとえば、SNS(ソーシャル・ネットワーク)というのは、まさに人間カタログ化の代表的なシステムであると言える。

SNSを使用する場合、人々はそこに自分の情報を自らデータベースに書き込む。自分の情報というのは、言ってみれば商品カタログのスペックに当たる部分だ。

顔写真、名前、年齢、性別、体重、身長、宗教、出身、家族、学歴、経歴、職歴、年収、趣味、価値感、性格、好きなもの、嫌いなもの、日常生活……。

ありとあらゆる情報を微細にそこに書き記す。


スペックで人間を選ぶのは大きな落とし穴がある


そうすると、SNSのシステムは、自分に相応しいと思える共通項を持った相手を選別(マッチング)して提示してくれたり、あるいは自分で検索して相手を見つけたり見つけてもらったりする。

どのような出会いを求めているのかでSNSは細分化されている。単なる友達を探している人はフェイスブックに登録するし、結婚相手を探している人は「婚活サイト」に登録して「スペック」で相手を探す。

婚活サイトがあちこちで立ち上がり、それが利用され、そこで相手を見つけて結婚する人が増えているのだから、それはもう異様なことではない。

今や、パートナーを情報で選ぶ時代になっているのである。

学歴や容姿や身長や性格や年齢が「スペック」として情報化されているのだから、それを検索し、比較し、検討し、自分にぴったりと思うものを選ぶことができるのは便利だ。

しかし、それは完璧ではないし、落とし穴もある。

いくらスペックを正確に書いたとしても、人間は商品と違うという点が大きな落とし穴になる。

顔写真は当てにならないというのは昔からよく知られている。撮る角度、光の反射、表情、女性では化粧や髪型によって、いくらでも細工ができる。

年齢は正確に書かれてあっても、人間の肉体は一様ではないので年齢相応であるとは限らない。年齢よりも老けていることもあれば、若いこともある。体重も増減するのは当たり前だし、性格も一定しない人もいる。

さらにリストラされれば職の欄は空白と化し、年収も下がってしまうかもしれない。趣味も価値感も好き嫌いも日常生活も、すべて変化するものだ。

商品のスペックは日によってころころ変われば消費者は激怒するが、人間のスペックがころころ変わるのは受容せざるを得ない。なぜなら、人間とは変化するものだし、それは自分自身も言えることだからだ。

つまり、出会いをスペックで選ぶというのは正しい選択にならない可能性がある。どれだけスペックを細分化しても意味がない。それ自身が変化するからだ。

商品にスペックと違う点があれば返品できるが……


人間の性格は複雑だ。そして、人間の変化は無限だ。だから、商品カタログのように相手のスペックを見て「自分に合う」と思うのは完全に間違っている。

人間のスペックは頻繁に変わるのである。

仮にスペックが正確だと思って一緒になったとしても、そこからもまた人間は変化していく。そして、パートナーが自分の望むように変化してくれるとは限らない。

場合によっては、急激に自分が許容できない変わり方をするかもしれない。

検索してスペックで選択したパートナーにスペックを満たさない欠陥があった場合はどうするのか。商品にスペックと違う点があれば返品できるが、人間の場合はどうなのか。

スペックで人間を選んだ人は、スペックが違えば一緒にいる理由を失う。スペックと合致するパートナーが欲しかったのに、そうでなければ詐欺だと感じるはずだ。

スペック史上主義であればあるほど、そんな心境にとらわれていく。そして、スペックに合わせて選ぶ合理性を持った人は、同時にスペックと合わなければ捨てるという合理性もあっても不思議ではない。

スペックに合わない今のパートナーを捨てて、自分に合う別のパートナーを再び検索し、捜し出し、現在のパートナーと比較し、どちらがいいのか選ぶはずだ。

基本的に情報化社会はそれができるようになっており、そういったシステムがあるのであれば、当然それを「使いこなす」人間も増えるのは当然だ。

もちろん、スペックで選んで成功する例もある。

最初はスペックで選んだが、微妙に合わないところは互いに受容し合い、合わないところもまた人間らしくて愛おしいと思える人は、どんな出会いでもうまくいくだろう。

本当のスペックは、スペック化できない部分にある


基本的にインターネットは大量情報化社会のことであり、大量情報化社会とは、無数の選択肢を提供する社会のことを指している。

これは、「我慢しなくても選択肢は無数にある」ことを意味している。そうであれば、パートナー選びが間違ったと思えば、さっさと「取り替える」方が楽だと思う人が出ても不思議ではない。

不良品を取り替える発想で、人間を取り替える。

それができるようになったということは、情報化時代では人間もモノ化されて、商品と同じレベルにまで落ちたと言うこともできる。

だから、人間関係もパートナーの属性もみんな情報化されて、合わなければ粗悪品がゴミ箱に捨てられるのと同じ気軽さで捨てることも可能になる。

しかし、人間のモノ化は間違いなく失敗する。

人間はモノではないのだから、モノではないものをモノ化すれば必ず矛盾が生まれる。その矛盾が大きくなれば、モノ化するという発想によって自滅することになる。モノ化できない部分に裏切られるのである。

人間にとって幸せなのは、相手をモノ化して厳密化されたスペックの中で無数の選択肢を与えられることではない。

「おおまかに合う」と思った相手と、雑談したり、喧嘩したり、一緒に笑ったり、怒ったり、馬鹿だなと思われたり、思ったりして、違う部分も受容して、一緒の時間を過ごすのが幸せなことではないのか。

スペックで選びスペックに精密であることを求めるよりも、おおまかに合うところを見つけて、互いに許せると思った相手と時間を共有する方が人間らしい。

人間の本当のスペックは、スペック化できない部分にある。そこに気付かないと、大量情報化社会の出会いで落とし穴にハマる。



婚活サイトに登録しているフィリピン女性。今や国境を越えて結婚相手を検索できる時代になっている。しかし、人間のスペックは変化するのが常なので、スペック史上主義になると必ず裏切られる。


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