私たちは、何をしても昔よりも成功しにくい時代になって来ている。目的は果たすことができず、夢は実現できず、夢の実現どころか通常の生活すらもどんどん苦しくなってきている人の方が多い。

これは総務省の出している消費支出を見ても分かる。日本人の消費支出は、弱肉強食の資本主義を取り入れた小泉政権以後から着実に落ち込んでいるのである。

この流れは今も続いている。その年によって前年度比での上昇はあるのだが、この15年間を俯瞰して見ると一貫して右肩下がりになっている。

2001年以後の小泉政権の頃から社会保障の削減が行われるようになり、非正規雇用も拡大し、若年層の格差・貧困が急激に広がっていく時代に入った。

2008年のリーマン・ショックによる全世界を覆った不景気、そして2009年から2012年までの無能な民主党政権の時代を経て消費支出は急激に落ち込んだ。

2013年に入ってから安倍政権が樹立してやっと右肩上がりになった。ところが、安倍政権は民主党政権が決めた消費税8%を実行せざるを得なかったので、2015年から再び消費支出は落ち込んだ。


時代が逆風であれば、成功は苦難の道となる


消費支出の推移を見ていると、国民の生活は社会環境に左右されているのをしみじみと感じる。

個人の資質や努力によって社会環境の悪化を乗り越えて成功することも可能なのだが、時代が順風の時と逆風の時では成功に至るまでの過程が違うはずだ。

当然だが、時代が順風であれば成功しやすく、時代が逆風であれば成功をつかむのに苦難の道となりやすい。

1980年代のバブルの時代は、どんな甘い見通しの事業でも時代に勢いがあったのであっと言う間に成功した。投資家も、どんな理由で何の株を買っても全員が儲かった。不動産もどんな僻地でも価格が上昇した。

個人の能力が劣っていても、時代に勢いがあったら成功しやすかった。ところが、バブル崩壊以後は、どんな有能な人が事業をしても破綻する確率が高まり、投資家も敗退し、不動産を所有する人は借金で首が絞まった。

楽観主義やら成功哲学のような本が大量に出回り始めて、それが広く読まれるようになったのはバブル崩壊以後だ。

その心理は手に取るように分かる。バブルが崩壊した後の日本人は自信を喪失した。何をしてもうまく回らない世の中で苦しむようになった。

1990年代後半からは自殺者も急激に増えていた。2000年代に入ってからは格差問題や貧困問題が続出するようになった。その結果、いったい何を頼りに生きるべきなのかと日本人は途方に暮れていたのである。

そこに、楽観主義やら成功哲学のようなものが広がるようになっていた。日本人はそれに「すがる」ようになり、何とか現状を変えられないかと足掻いたのである。

その結果、楽観主義や成功哲学の本は次々と売れるようになっていき、呆れるほど無責任な楽観主義を煽る本や成功哲学が満ち溢れた。

「強い情熱で、良いことだけを考えれば良いことが起きる」「強く願えば叶う」と成功哲学の著者は無責任に煽り、驚いたことにそれを頭から信じてしまう無邪気な人まで出てくるようになった。



総務省の「家計消費指数」より消費支出の推移。平成27年(2015年)を100として指数化したもの。

荒唐無稽な哲学が人生を救うことは絶対にない


もちろん楽観主義でいることや、成功に意欲を持つことは悪いことではない。人生においてそれは積極的に追及されるべきでもある。

しかし、「強く考えただけで成功する」とか「信じ切ることで絶対に成功する」というのはあまりにも荒唐無稽すぎる。

常識で考えれば、強い願いがあっても、行動や能力や運が伴っていないと成功できるわけがないのは誰でも分かる。

ギャンブラーが連戦連勝したいと強く願っても、宝くじが当たって欲しいと強く思考しても、運動能力がない人間がスポーツ選手になりたいと強い情熱を持っても無駄に終わる。

現実的でないものは、強く願っても叶わないというのは子供でも分かることだ。ところが、時代が悪化していくと、そういった理性が吹き飛んでしまった人が多かった。

「信じる者は救われる」と日本人は宗教のように考えたのかもしれない。それほど、精神的に追い詰められていたということなのだろう。

それまで日本人は「真面目に働いていれば報われる」「終身雇用は崩れない」「土地はずっと右肩上がりだ」と信じ込んでいた。それがすべて崩れ去ったのだから、何かすがるものを求めたとしても責められない。

しかし、非現実な楽観主義や成功哲学は、日本人を救うに至らず、単なる娯楽として消費されるだけでしかなかった。

楽観主義や成功哲学をいくら真剣に学んでも成功しない人が続出しているのは、それが「毒にも薬にもならない」からだというのが誰も言わない真相である。

それでも、今でも楽観主義も成功哲学も次から次へと信奉者が出てくるのはなぜなのだろうか。

それは娯楽として売れるから大量にメディアで取り上げられ、出版物も大量に存在し、広告で似たようなものが大量に宣伝され、人々が煽られるからだ。

藁をもつかもうとする人々が、救いを求めてすがる


楽観主義や成功哲学は、それ一冊では目立たないかもしれない。しかし、数百、数千もの楽観主義や成功哲学の本が満ち溢れると、それ自体が大きなジャンルとなって無視できなくなり、何か救いを求めている人がそこに逃避する。

溺れる者は藁でも成功哲学でもすがりつきたい。効果があろうが、なかろうが関係ない。「それにすがりついたら、万が一でも成功するかもしれない」と無意識に自分を洗脳する。

宝くじなど当たらないと思いながら宝くじを買い、やはり当たらないで失望しながらも、また次の宝くじを買う心理に似ている。たまに当たる人がいるという部分も楽観主義や成功哲学と宝くじはよく似ている。

本当は、当たらなかった膨大な人たちの存在を見なければならないのだが、人々は水面下の不都合な真実を見ないで、ほんの小さな「氷山の一角」を見てそこに希望を託す。

ありとあらゆる場所で広告され、拡散され、人々がすがりつきたいものは、効かなくても存在が許されている。それはいつしか大量の情報となって満ち溢れて、やがて失望に溺れた人を取り込んでいく。

大量の情報となって社会に出回っていくものは、それが嘘でも間違いでもカルト的な信奉を得ることもある。「嘘も百回言えば真実になる」という錯覚がそこに働く。

束になって宣伝される「大量の情報」というのは、現代社会ではまったく珍しくない。珍しいどころかありふれている。

大企業はどうでもいい製品を大量宣伝で一気に知名度を上げて売り込むし、テレビや新聞のような媒体もまた大量宣伝を繰り返すことで儲けている。

現代人は24時間、365日、それこそ生まれたときから死ぬまで大量の宣伝を浴びせられて生きているのだ。大量の宣伝、大量の情報から逃れることができないのである。

楽観主義になったら成功するとか、成功哲学を読めば成功すると勘違いするのも、この大量宣伝のせいだ。滑稽なものが真実のように謳われる。

時代の荒波に押し潰され、苦しみ、藁をもつかもうとする人々が救いを求めてそれにすがりつく。しかし、荒唐無稽な哲学が人生を救う確率は限りなくゼロに近い。現実を見なければ生き残れない。



たまに当たる人がいるという部分も楽観主義や成功哲学と宝くじはよく似ている。本当は、当たらなかった膨大な人たちの存在を見なければならないのだが、人々は水面下の不都合な真実を見ないで、ほんの小さな「氷山の一角」を見てそこに希望を託す。



〓 関連記事