ロシアの政治がきな臭くなっている。ウラジーミル・プーチンは政治的指導者として2000年に大統領になってから17年もロシアに君臨している。

この期間にプーチンは自分の政敵となる人間をことごとく葬ってきた。(毒殺の季節。プーチン大統領も政敵を毒殺で葬ろうとする

2016年にはロシアの元下院議員であるボロネンコフを射殺し、2017年にはウラジーミル・カラムルザ氏に毒を盛って殺害しようとした。

そして今、急激に湧き上がっている反プーチン政権デモに対して激しい弾圧をしており、デモ参加者を少なくとも700人以上を拘束している。

プーチンは絶対に自分に対抗する人間を認めない。それが政敵であれ民間人であれ、ことごとく脅迫・拘束・逮捕・殺害によって葬っていく。だからこそ、プーチンは17年もロシアの政治に君臨できたとも言える。

組織をまとめる方法はいくつもあって、百人百様でもある。それぞれの指導者が、自分に合った方法を採用して組織運営に当たっている。

しかし、世の中は常識人だけで構成されているわけではない。当然、中には異様な手法を取る指導者も出てくる。


崇拝を強制するような指導者が世の中に存在する


異様な組織運営の最たるものは、「自身の神格化」と「崇拝の強制」である。ドイツのヒトラーも、中国の毛沢東も、ソ連のスターリンも、カンボジアのポル・ポトも、強烈な独裁で国を支配して崇拝強制を国民に強制した。

こういった独裁体制は現在は通用しなくなりつつあるが、それでも絶滅したわけではない。北朝鮮ではまだそのような異常な体制が続いている。北朝鮮の場合は金(キム)一族が3代に渡って独裁政治を敷き、国民が今も崇拝から抜け出せないのだからどうかしている。

国家だけではなく、組織という名前の付く集団の中には、規模が大きくても小さくても、無理やり人を洗脳し、崇拝させるようなやり方をする指導者が星の数ほどいる。

独裁者が国というスケールでそれを行うだけでなく、企業家が自分の企業の内部でそうすることもあるし、カルト教団が信者に崇拝を押し付けることもある。

これらの「強制崇拝」をする指導者は規模の大小に関わらずどこにでもいて、あの手この手で人間を押さえつけて、その人の人生を奪う。

ひとりのトップがふんぞり返り、上層部が個人崇拝を強制し、関わっている全員が自分の人生を捨ててトップのために人生のすべてを捧げる。そんな狂ったような世界がある。

個人崇拝を強制する組織は、それがどんな組織であれ人々を不幸にするのは100パーセント間違いない。

誰かを盲目的崇拝するというのは、まさにその人の奴隷になるということだ。自分が誰かの歯車や、都合の良い人間になる。そんな馬鹿げた人生があるだろうか。

優れた人間を見ると、誰もが自然な尊敬の念を抱く。誰でも人生の中で尊敬する人をひとりやふたりは持つ。

しかし、神のような絶対的存在として「崇拝させられる」というのは、自然な尊敬とはまた別種のものだ。それは、異様なことなのだ。



誰かを盲目的崇拝するというのは、まさにその人の奴隷になるということだ。自分が誰かの歯車や、都合の良い人間になる。そんな馬鹿げた人生があるだろうか。

崇拝を強制する組織は、その人の人生を奪う


自分の人生を生きるというのは、迷い、ぶつかりながらも、自分の頭で考えて、自分の意思で行動することである。他人を崇拝して、奴隷になることではない。

しかし、世の中には往々にして崇拝を強制する力が働くことがあり、大勢の人々がそれに巻き込まれる。崇拝を強制され、誰かの奴隷にされる。

「誰かを崇拝せよ」と言われれば全身全力で反撥する必要がある。崇拝を強制する人間や社会に抵抗し、戦わなければ生きている意味がなくなる。抵抗しないと、身も、心も、金も、すべて奪われる。

崇拝するということ自体が危険なのに、それを強制させるのだから異様であると感じなければならないのだ。

崇拝を強制する組織は、そこに属する人の人生を奪う。それは人を「奴隷化」する。それは一種の地獄だと言ってもいい。本当は信じていないものを強制されるほど、人間の尊厳を破壊するものはない。

独裁国家は国民全員に指導者の崇拝を強制する。

独裁者やその一族を崇拝することは、どんな任務よりもまして優先される。国民は、あらゆる仕事、あらゆる法律、そして親兄弟よりも優先しなければならない。

その個人崇拝は全執行部によって徹底され、裏切り者は家族もろとも処刑される。市民・軍隊はすべてひとりの人間の指示によって行動し、自ら考えてはならない。

忠実に命令を執行しなければならない。そして、命令のためには生命を投げ出さないとならない。独裁者が「指導」したら、それがどんなに理不尽であっても従う必要がある。

それはあまりにも馬鹿げた世界だ。

しかし、このような他人を強制崇拝や隷属化させる組織が存続できるというのは、逆に言えば、他人に隷属してもいいと考える従順な人がいるということでもある。



独裁者が「指導」したら、それがどんなに理不尽であっても従う必要がある。命令のためには生命を投げ出さないとならない。

なぜ「他人に人生を委ねてもいい」と思うのか?


誰も彼もが反逆者の精神があったら、強大な独裁者は生まれることはない。

独裁者が誕生するというのは、「他人に人生を委ねてもいい」という人も大量にいるということを意味している。逆らうよりも前に、相手に委ねる人がいるのだ。

なぜ、そのような人たちが生まれるのだろうか。その答えは「楽だから」だ。「考えなくてもいいから」だ。

自分の人生を自分で切り拓いて生きるというのは、とても大変で面倒なことだ。生き方を自分で決めて、生活を自分の力で成り立たせるというのは並大抵ではない努力が必要だ。

誰かに服従して、その誰かが食べさせてくれるのであれば、自分でどうするか考えるよりも「楽でいい」と考える人が確かにいる。

指導者が独裁的であればあるほど、すべてを委ねて何も考えずに生きていける。ロボットや歯車になるというのは、責任はすべて独裁者に取ってもらえるということでもある。

世の中が共産主義や社会主義や全体主義になったら、上が何か言えばそれに従って生きれば、少なくとも生活は保障してくれるのでとても楽なのだ。

もちろん、自分のやりたいこと、好きなことはできないが、責任は取らなくてもいいし、どう生きるかという「面倒なこと」を考える必要もない。

だから、我が指導者が「自身の神格化」と「崇拝の強制」を押しつけてきても、面従腹背でも何でもそれに従って長いものに巻かれていく。

ところが、人間の心は単純にできていない。崇拝がこれでもか、これでもかと続くと、いずれは反撥心も不満も怒りも湧きあがっていく。

しかし、そのときに反撥しても遅い。崇拝することによって、人生のすべてを掌握されてしまっており、もうそこから逃れられなくなっているからだ。崇拝に染まりきっていると、ある時点でそこからもう抜け出せなくなってしまう。

だから、私たちは他人を崇拝するという社会現象に気を付けなければならない。尊敬すべき人間はいるが、崇拝すべき人間はこの世にはいない。



指導者が独裁的であればあるほど、すべてを委ねて何も考えずに生きていける。ロボットや歯車になるというのは、責任はすべて独裁者に取ってもらえるということでもある。

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