インドでは道ばたで朽ち落ちたように餓死して死んでいく貧困層もいる。

ユニセフが子供たちの環境について調査した結果を記した「プログレス・フォー・チルドレン」によると、インドの5歳未満児に占める発育障害の割合は46%もいるという。

発育障害は言ってみれば長期的な発育不良で体重が基準に満たない子供たちを指すのだが、その理由は栄養が足りないことに原因があることが多い。

そのため、病気にも罹りやすく運動機能の発達が遅れたり知能の発達が遅れたりする。

身長に対して体重が軽すぎることを「消耗症」と言うが、インドでは5歳未満児による消耗症児の割合も20%であり、これはユニセフが記録している世界の子供たちの中ではワースト3である。

インドではそれだけ「食べることができない人たち」が大勢いるということを、このユニセフのデータは示している。実際、飢餓人口の4分の1はインドに集中している。

ところで、インドの「市場」はどうなっているのだろうか。日中はひどく暑くなるインドでは朝早くにマーケットが開くのだが、そこに行くと驚くべき光景を目にすることになる。


日本で食べているよりもボリュームは上だった


何もなくて驚くのではない。逆だ。大量の野菜、大量の果物、大量の肉、大量の物資が、溢れるほど路上に積み上げられて、大勢の人で賑わい、凄まじい活気に満ちている。

果物は色とりどりで美しい。野菜もとても新鮮で強烈な匂いを発しており、「本当の野菜とはこれだ」という活きの良さが見て取れる。ほんのわずかなお金で、果物など抱えきれないほど買うことができる。

鶏肉もその場で屠殺してさばいて新鮮すぎる肉を提供してくれるし、魚も生きた魚を目の前でさばいてくれる。

大勢の人たちが、朝から買い物にやってきて日本の満員電車なみの賑わいで、インド人の主婦や老婆が大きな声で野菜を品定めしたり、価格交渉をやっていたりする。

はっきり言って、その質量や新鮮さは日本の比ではない。

「飢餓人口の4分の1はインドに集中している」というユニセフの報告は嘘ではないかと思ってしまうほどの圧倒的な食べ物の量がそこにある。

そして、インド人は男も女もみんなよく太っている。

私は10年以上も昔から知っている路上の物乞い女性がいるのだが、久しぶりに彼女に会って郊外にある彼女の村に招待してもらったことがあった。

「貧しい村でしょう」と彼女は悲しんだ。確かに掘っ立て小屋同然の建物が並び、ドアは布きれ一枚で済ませているような場所であり、貧しい村であるのは間違いない。

私は彼女の長年に渡る友人だということで、彼女の叔母の家に招待されて食事を食べさせてもらったのだが、そこに出てくる食べ物の量は、おおよそ日本人が想像する「極貧の食卓」とはほど遠いものであった。

カレーに、ポテトに、大盛りの米。肉こそなかったが、普段私が日本で食べているよりも、ボリュームも栄養もインドの貧困村の方が上だった。

野良犬と一緒になってゴミを漁っていた子供たち


いったい、これはどういうことなのか。

そう言えば、物乞いで何十年も暮らして路上生活をしている友人女性は、日本の感覚で言うと肥満であると言っても過言ではないゆったりとした体型をしている。

衣食住のうち、衣と住については貧しいが、食については特に困っているわけではなさそうだった。インドは「食べるものが豊富にある」というのは私の実感だ。

では、発育障害の児童や消耗症児はいないのか。

もちろん、いる。インドでは、どこでもフラフラと歩いていると、大勢の子供たちがやってきて「お腹空いた。お金ちょうだい」と言いながら切ない目付きですがりつき、何十メートルもつきまとってくる。

彼らがいなくなると、また次の子供たちが付きまとう。それが朝から晩まで延々と続く。コルカタの売春地帯でも、真夜中になっても子供たちが物乞いのためにうろついている。

大通りから外れ、よく分からない路上に入ると、今度は路上で暮らしているホームレスたちの一群に合う。彼らもまた痩せ細り、子供たちも身動きしない。

私は真夜中もインドの街をさまよい歩いていたのだが、真夜中にたまたま市場があった路上を歩いて市場のゴミの山で見た光景は凄惨だった。

痩せ細った子供たちは、真夜中の市場の一角にあるゴミ捨て場に集まって座り込み、野良犬と一緒になって食べられるものがないか漁っていたのである。

その時、私は気付いた。あの物乞いで生計を立てている私の顔見知りの女性や、彼女の叔母が住んでいる貧困村は、実は「最底辺」ではなかったということを。

本当の最底辺は、真夜中に市場のゴミを野良犬と分け合って食べている子供たちの方にある。

「ただで分け与えるくらいなら捨てる」のが資本主義


これは、インドの貧困は、どこまでも尽きぬほど果てしがないほど深いということを示唆している。

そして、貧困が何重ものレイヤー(層)になっていて、レイヤーの上と下とではまったく関わりがないまま社会が動いていることをも示している。

確かにインドでは極貧層が存在しているのだが、だからと言って食べ物が足りないわけではない。

食べ物は豊富にある。13億人が肉や卵を食べ出すとどうなるのかは分からないが、野菜や果物や米はありあまるほどあって、市場で安く売られている。

しかし、その食べ物はいくら豊富にあっても「金がないと手に入らない」のである。だから市場の大量の食材を横目に見ながら、それを手に入れることができなくて子供たちの46%が発育障害に陥っている。

インドは日本以上に食べ物があり、それらはとても新鮮で豊かで大量だ。

それなのに、それが手に入らない人が夥しく存在する。こうした人たちが農村部で呻吟し、コルカタのような都会に出てきても仕事が見付からなくてやはり路上で呻吟する。

新鮮な野菜も果物も、数日もすれば萎れて捨てるしかなくなる。野菜は豊富にあるのだから、古くなったものは誰も買わない。だから、それらは捨てられる。

捨てるのであれば、極貧層に無償で提供すればいいのではないかと思うのだが、そうすると極貧層はすべてを無料で手に入れられるようになるわけで何も持たないことが特権となる。

だから、商人は分け与えることは絶対にない。むしろ、無償で分け与えるくらいなら捨てた方がマシだと考えて破棄するのである。ゴミとして捨てる。

貧困層が飢えて死のうが、子供たちが発育不良になろうが、そんなことは商人には知ったことではない。ただで分け与えるくらいなら捨てる。金がない人間には与えない。

ところで、日本はどうなのだろうか。

日本でもお金がなくて「おにぎりを食べたい」と言って餓死してしまった人がいるが、日本には餓死者が出さなければならないほど食べ物はないのだろうか。

いや、日本でも食べ物は豊富にあってコンビニは売れ残りを破棄している光景があるのだが、売れ残りはもちろん飢えた人には絶対に何があっても与えられることはない。

これを私たちは「資本主義」と呼んでいる。私は資本主義を批判しているわけではない。資本主義の現実を指摘している。人が飢えても絶対に「ただ」で分け与えないのが資本主義の原点である。




果物は色とりどりで美しい。野菜もとても新鮮で強烈な匂いを発しており、「本当の野菜とはこれだ」という活きの良さが見て取れる。



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