「面白おかしく好きに楽しく生きたい」と誰もが考える。しかし、それでも私たちは自分自身にブレーキをかける。

朝は眠いのに早く起きて、面白くも楽しくもない仕事をして、本当に食べたいものも食べず、アルコールもちまちまとセーブし、まわりに気兼ねしてタバコも吸わず、健康を害すると言って暴飲暴食もしない。

欲しいものがあっても我慢し、借金をしたら後で首が絞まると言われるので我慢に我慢を重ねる。どこか旅行でもして、リゾート地で開放的に遊びたいと思っても有休も取れず、ひたすら我慢するだけで生きる。

責任、節約、自制、継続を強いられて、ただの一度もやりたいことをしないで日々、流されていく。

「好き放題して生きたい」と思っても、自分に課せられた責任はたくさんあって、自堕落に無軌道に乱脈に生きられない。ずっと耐えて、耐えて、耐えながら生きていく。

「この地獄から抜け出すにはどうすればいいのか」と真剣に悩みながら考える人もいる。やりたいこともできずに耐えて生きる人生を終わらせて「面白おかしく好きに楽しく生きたい」と夢想する人がいる。

非常に逆説的なのだが、たった「1つのもの」をあきらめれば、それは実現できる。


「面白おかしく好きに楽しく生きたい」はすぐ叶う


何をあきらめれば「面白おかしく好きに楽しく生きたい」が実現できるのか。

それは「自分の命」である。

生きることをあきらめる。自暴自棄になり、いつ死んでもいいという決意をすれば、すぐに「面白おかしく好きに楽しく生きたい」は叶う。

これは冗談で言っているわけではない。実際に貧困国の貧困地区では、自暴自棄になって好きにやって「太く短く生きている」人が大勢いる。

貧しい中でも真摯に生きようとする若者がいる一方で、本能に流されるように死に急ぐ若者も出てくる。

もう何もやっても自分が社会の底辺から抜け出せないと分かったら、いったいなぜ生きることに未練をもたなければならないというのか。

だから、貧困国の貧困地区の貧困の両親の元に生まれた若者たちの少なからずは無軌道にセックスし、ドラッグに溺れ、暴れ、さっさと死んでいく。

もう這い上がれない運命だと悟ったとき、自暴自棄が生まれ、「面白おかしく好きに楽しく生きたい」が優先されてそれを実現する。

自暴自棄は、「面白おかしく好きに楽しく生きたい」を叶える感情であり、動機である。

これを逆に言えば、自暴自棄になって自分の命がどうでもいいという気持ちに到達すれば、酒、たばこ、セックス、暴飲暴食、借金を好き放題することができるようになるということでもある。何だってできる。社会を破壊することさえできる。

もう自分の人生にも行動の結果にも責任を持たないで済むのだから最強だ。自分の人生は好き放題になる。人生を投げ出すのだから早死にするが、どのみち生きていても社会の底辺を這い回る人生しかないのだ。

自暴自棄になって、生きることをあきらめれば、その瞬間から「面白おかしく好きに楽しく生きたい」は現実のものとなるのである。



もう何もやっても自分が社会の底辺から抜け出せないと分かったら、いったいなぜ生きることに未練をもたなければならないというのか。だから、貧困国の貧困地区の貧困の両親の元に生まれた若者たちは無軌道にセックスし、ドラッグに溺れ、暴れ、さっさと死んでいく。

「気持ちの中では自分は死んでいる」という状態


誰も指摘しないこの奇妙な自己実現のパラドックス(矛盾)は、私はずいぶん早いうちから気付いていた。

なぜなら、私は二十歳の頃から貧困地区に沈没して、何も持たないはずの彼らの方が「自己実現」を成し遂げているのを目の前で見てきたからだ。自暴自棄になれば、「やりたいことを何でもしたい」という夢が実現するのである。

自暴自棄は幸せな状態ではないことは私たちは知っている。

しかし、それは向上心や生の執着がまだあるからそう思うだけで、どん底まで堕ちてすべてを失ってしまうと、今度は自暴自棄が心地良くなるという不思議な心の転換が起きる。

なぜ、そうなるのか。

それは、もう「努力しなくてもいい」「死んでもいい」という、開き直りの解放感が生まれるからだ。「自分の命」をあきらめれば、皮肉なことに今の楽しみを追求できる。

向上心を捨ててとことん敗者になり、そこに自暴自棄が重なると、死ぬほどアルコールを飲んでも問題ない。もう開き直って、「どうせ死ぬ」のだから、いくらでも飲める。歯止めが消えてしまうのである。

あるいは、好きなだけドラッグに溺れることもできる。依存症になろうが、中毒症状が出ようが関係ない。オーバードーズ(摂取過剰)で死んでもいいのだ。もう気持ちの中では、自分は死んでいるからだ。

自暴自棄になって人生を捨てたのだから、結果に責任を持たなくてもいい。むしろ、早く致死量に達して、死んで行きたいと考えているので、いくらでもエスカレートすることができる。

自暴自棄が奇妙な明るさを生み出すのは、それが理由だ。

人生を投げて、「もう死んでもいい」と思ったら、いくらでもアルコールを飲み、いくらでもタバコを吸い、いくらでも暴飲暴食をすることができる。

性病もエイズも恐くない。もう、自分がどうなろうと、相手がどうなろうと責任を持たない。だから平気で無防備なセックスができる。

金がない? 金がなければあちこちから大量に限界まで借りればいい。どうせ死ぬのだから返すことすらも考える必要はなくなる。強盗や殺人で奪うことすらもできるのだ。



好きなだけドラッグに溺れることもできる。依存症になろうが、中毒症状が出ようが関係ない。オーバードーズ(摂取過剰)で死んでもいいのだ。もう気持ちの中では、自分は死んでいるからだ。

地獄から這い上がれない人間は、そこで夢を叶える


もちろん、この「自暴自棄による夢の叶え方」は、誰も勧めることもないし、教えることもないし、表社会の偉い人たちにとってはおぞましい考え方に違いない。

それは、禁断の考え方であり、社会の秩序と平和を乱すタブーであり、許しがたいものだからである。確かにそれでやりたいことは何でもできるはずだが、ほんの短期間の線香花火のような夢の実現でしかない。

この「自暴自棄による夢の叶え方」を決断したら、恐らく1年は持たないで死んでいくことになるだろう。それは「緩慢なる自殺」と言っても過言ではない。

しかし、社会の底辺で這い上がることすらも許されないまま人生を送らなければならない人たちの中には、ごく普通にそうした選択をしているということに気付かなければならない。

それは、アンダーグラウンドで生き、何も持たず、誰からも期待されず、社会から疎まれている人間たちの、せめてもの慰めでもある。

彼らも最初から自暴自棄であったわけではない。しかし、どんなにあがいても、もがいても、這い上がれないと分かったとき、人はどこまで向上心を保てるのだろうか。

努力が尊いのは誰もが分かっている。しかし、どれだけ努力をしても這い上がれないと分かったとき、人は根の深い怒りと共に、這い上がることをあきらめる。

「無駄な努力」は止めて、もうどうなっても良いという自暴自棄に陥って、一切の努力を止めてしまう。

その瞬間、自分を虐げていた社会の中で、やっと好きなだけ飲んで食べて歌って踊ってセックスをしてドラッグをして、束の間の幸せを感じることができる。

行き着く先は「死」であることは分かっている。だから何だと言うのだろう。貧困層で生まれる捨て身の生き方と自暴自棄による夢の叶え方は、誰も「こんな方法がある」とは教えないものだが、社会の底辺では受け継がれている。

地獄から這い上がれない人間は、地獄の中で「面白おかしく好きに楽しく生きたい」をたった1度の短い間だけ捨て身で叶えるのである。



行き着く先は「死」であることは分かっている。だから何だと言うのだろう。貧困層で生まれる捨て身の生き方と自暴自棄による夢の叶え方は、誰も「こんな方法がある」とは教えないものだが、社会の底辺では受け継がれている。



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