現在よりもダウングレードした環境で生き残らなければならない状況に、私たちはいつでも陥る可能性がある。

経済的に困窮すると、生活をダウングレードしなければならない。あるいは国外に出ると、日本よりも格段に経済レベルの落ちた環境を受け入れなければならない。

生活をダウングレードすると何が待っているのか。それは、今よりも清潔度が落ちる環境だ。

なぜそうなのかは逆に考えれば理解できる。不潔な状態というのは誰にとっても快適ではない。だから経済的に豊かになると、まず「清潔さ」を手に入れようとする。

自分自身も薄汚れた服を捨てて清潔な服に買い換える。自分自身をも清潔にしたいので、シャワーや風呂が付いている場所に引っ越す。引っ越し先は、今よりもきれいな場所になる。清潔さが快適だからだ。

清潔さを維持するには金がかかる。しかし、それは金を払う価値があると誰もが知っている。だから、生活のアップグレードは清潔さの追求になるのである。

逆に言えば、ダウングレードは「清潔さ」を失うということだ。ということは、生活をダウングレードするために必須となるのは、今よりも清潔ではない環境を受容できる精神力であると言うこともできる。


清潔さが当たり前に思っていると質が落とせない


どこの国でもいい。外国を巡って日本に降り立つと、真っ先に感じることがある。それは、日本という国は、とことん「清潔」であるということだ。

清潔と言えば、シンガポールも負けていない。しかし、そのシンガポールを上を行く「清潔さ」を、日本という国は持ち合わせている。

しかし、この「清潔」を失いたくないという気持ちのままでいると、不潔な環境を受容できる精神力が弱ってしまい、生活をダウングレードしても生き残るしたたかさが弱る。

わざわざ不潔を好む必要はないし、日本社会を不潔にしろと言っているわけではない。清潔を追求する日本社会は世界でも稀に見る美しい文化を生み出している。それは誇るべきだ。

しかし、その清潔さにどっぷりと浸ってそれが当たり前のように思っていると、生活の質を落とさなければならない局面で気持ちが折れる。

地を這って泥水を飲んでも生き残る強さやしたたかさは、まずは清潔ではない環境でも生き残れる耐性を必要とする。

だから、清潔である環境を当たり前と思うのは若干、危険なことではある。

経済的に困窮したときや、人生の下降局面で生活のグレードを落とさなければならないときに、それができない。気持ちがどうしても対応できないからだ。

そうしているうちに、もっと悪い環境に落とされて大きな精神的ダメージを受ける。

いざとなったら自ら生活をダウングレードして平然と生きていける人は強い。

どんな環境でも生き残れる人というのは、今より清潔さの劣る環境に放り込まれても、それに対して耐性を持っているということでもある。

不潔を気にしていたら、海外では生きていけない


日本は世界でも有数の「清潔国家」だ。ということは、日本人が海外に出ると、だいたいは日本よりも劣る清潔環境に直面するということになる。

海外では欠けた皿、ガタガタのテーブル、埃が舞い、ハエが飛び交う中の食事など、どこでも当たり前にある。コップの底は水垢で黒くなっているようなものも使われている。

食べ物に虫が入っていることさえある。

日本ではそんな不潔なものは、すぐに撤去されてしまうだろう。インターネットに書き立てられて大批判にさらされ、店じまいを余儀なくされるはずだ。

東南アジアやインドの安宿は日本の環境で言えば、想像を絶する不潔さである。

ベッドはすでに前の人の汗の臭いがすることもあれば、シーツをまくればトコジラミが棲息している跡がびっしりと残されていることもある。(トコジラミ。部屋に入ったらベッドのシーツをまくって裏を見ろ

剥がれた壁、埃とゴミだらけの床、カビだらけの浴室、這い回る虫、天井から落ちてくるヤモリ、水道の蛇口から出てくる茶色の水……。

海外ではそんなものは普通なのである。

そんなことをいちいち気にしていたら、生きていけないというのが実情だ。

繰り返すが、「清潔」であることが悪いとは誰も言っていない。清潔であることは素晴らしいことだし、誰でもそれは認める。

しかし、限りない清潔さを求め、それを法律化し、少しでも規則が破られれば大騒ぎしていると、社会は清潔になるだろうがそれによって失うものもかなりある。

それでもなお生き残る「したたかさ」を身につける


あまりに清潔さを追求してばかりいると、社会はおおらかさを失い、柔軟性を失い、清潔さのためにコストばかりがかかる世の中になってしまう。

野菜に土がついていたら苦情、虫がついていたら苦情、少しでも傷んでいたら苦情、色や形が揃っていなければ苦情……と万事がその調子でやっていたら、その分だけ製造も管理もコストがかかって大変なことになる。

清潔さを維持するにはコストがかかるのだ。

すべての商品にそうした厳密な清潔さを求め、そこに法規定まで重なると、清潔さは格段にアップするかもしれないが、社会の柔軟性は極度に悪化する。

これは、海外に長くなった人が日本に帰ってきたら誰もが口にすることだ。

「日本は何か息が詰まる」
「日本はみんな縛られているように見える」

日本人の清潔志向が行き過ぎると、自ら生きにくい社会を作り出すことになってしまう。日本人自身が「自縄自縛のワナ」にかかってしまうのだ。

さらに悪いことに、その清潔さに子供の頃から慣れてしまうと、今度はそれより劣る環境に対する耐性が持てなくなる。無理やりそこに放り込まれると、激しい失意や恐怖に陥る。

社会が清潔になりすぎると、今よりもレベルの落ちた環境を不潔に思い、精神的に対応できなくなってしまうのである。その気持ちが人生の困難なときに訪れる生活のダウングレードを難しくする。

どうすればいいのか。

生活を落としても、どん底に堕ちても、社会がめちゃくちゃになっても、国外の貧困地区に堕ちても、それでもなお生き残る「したたかさ」を身につけるには、そうした世界を最初から知っておけばいい。

どこかで最初から体験しておくのである。若いうちは安い地区の古いアパートから始めるのもいいし、そうでなければ積極的に海外に出てみるのもいい。

知らないのと知っているのとでは、その許容度はまったく違う。貧困から這い上がってきた人が精神的に強いのは、また落ちたとしてもその世界自体を知っているからである。

知っていれば恐怖はないし受容も早い。

何らかの不運が重なっていったん落ちても、素早くダウングレードした生活に馴染んで、そこから這い上がる方向に集中することができる。

世の中、何が起きるのか分からない。今よりも悪いことも必ず起きる。いつでもダウングレードできる人間は、できない人間よりも生き残れる強さを持つ。

今の清潔さを失っても問題ないと言って生きていける人は、したたかだ。



あいりん地区の安宿の廊下。世の中、何が起きるのか分からない。今よりも悪いことも必ず起きる。いつでもダウングレードできる人間は、できない人間よりも生き残れる強さを持つ。



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