完璧主義は自分を成長させる原動力になり、対外的には大きな競争力になる。有名人でもその完璧主義者であるが故に成功した人が数多い。

アップルの創始者スティーブ・ジョブズ、サッカー選手のデビッド・ベッカム、映画監督の黒澤明、指揮者のカラヤン、歌手のプリンス、作家の三島由紀夫、政治家のガンジー等々、成功した完璧主義者を挙げれば、それだけで一冊の書籍になるほどの人数となる。

完璧主義であることと成功は、密接に結びついていると言っても過言ではない。こうした現象は非常に良く知られているので、そのために完璧主義を自分に強いる人も多い。

しかし、ここにある種の錯覚とワナがある。

人間は誰でも完璧ではない。完璧主義になるというのは、自分に無理を強いるということでもある。少しでも完璧に近づこうとする努力は、自分を高めるのと同時に自分を破壊する元凶にもなり得るのだ。

不可能なことをしようとしているのだから当然だ。

無駄なことは、それを追求すればするほど蟻地獄に落ちる。完璧であろうと思えば思うほど心配は募っていき、ストレスが激しいものになっていく。


存在価値すらも無意味だったと思い込む完璧主義者


完璧であろうとするのは美しい。そして、完璧主義者が生み出した表現物も美しい。しかし、完璧主義は鋭い両刃の剣となる。

完璧であろうと努力することで、自分に対して問題を引き起こすことになるのだ。

完璧主義者は、自分が理想とする「あるべき姿」を常に頭に思い描いている。そのため、自分が「あるべき姿」であり続けるように努力し続け、そして消耗していく。

完璧主義者は、時には何も生み出さないこともある。なぜなら、完璧ではない自分や自分の表現物が「完璧でなくて恥ずかしいもの」「準備ができていないもの」と思いつめるからだ。

自分が納得できないので、いつまで経っても何も生み出せない状況になってしまう。

完璧主義者は、何もやらないこともある。なぜなら、完璧ではない自分を見せつけるのは恥ずかしいので、それくらいなら何もしない方がマシだと考えるのである。

20代どころか30代に入っても性行為の経験がない人たちの中には「自分の容姿が完璧ではない」だとか「自分が完璧に性行為を行える自信がない」という思いで、自制し続けている人もいるという。

完璧主義者は、自分自身にあまりにも非現実的なレベルを押しつける。すべてにおいて完璧な身体を持った人はほとんど存在しない。しかし、完璧主義者はそれを自分に求める。

そのために、自分の完璧ではない裸体を性行為をする相手に見られたくないと思ってしまうのである。

もし自分が失敗したり、笑われたり、からかわれたり、すごいと相手に思われなかったりするとどうするのか。自分の努力どころか存在価値ですらも無意味だったと思い込む。

そのような極度の傷つきやすさを完璧主義者は持つ。

完璧主義はむしろ自分を苦しめるものとなる


人間はすべてにおいて完璧であることはできないので、自分の重要な仕事や才能以外においては、むしろ完璧であろうとすべきではない。

しかし、完璧主義者は余計な枝葉にのめり込み、次第にすべてにおいて完璧を求める。

だから逆に、何も成し遂げられなくなることも多い。本筋ではない部分で完璧さを求めると、本筋がおろそかになる。そのため、最後には全体がおろそかになる。

完璧主義は方向性が自分の才能と合致すれば素晴らしい成果物を生み出すのだが、そうでない部分での完璧主義はむしろ自分を苦しめるものとなる。

完璧でありたいのに完璧になれない。その苦しみがずっと完璧主義者を苦しめていくのである。

そうであるならば、合理的に考えれば完璧主義であることを捨てればいいだけの話なのだが、完璧主義者は性格的にもそれを捨てることができない。

完璧であることがアイデンティティとなっているので、それを捨てることは自己を喪失することになってしまうのだ。

そのため、完璧主義者がいったん道を踏み外すと、まったく何も生み出せなくなる。決して満足することができず、それに対して激しい欲求不満を抱く。

そうやって、次第に精神を病んでいくことになる。

完璧主義者が燃え尽きやすく、絶望しやすく、自殺しやすいのは、完璧主義であるにも関わらず自分が完璧ではないということの乖離に苦しむからだ。

完璧主義者がアルコールやドラッグに溺れていくのも、完璧になれないことの苦しみから逃れたいと思うからでもある。「不甲斐ない自分」から逃れるために、それが必要になるのだ。

アルコールやドラッグにのめり込むようになると、ますます完璧からほど遠くなってしまう。そうやって、完璧主義者は自滅していく。

やる意味のないことを完璧にやっても意味がない


別に完璧でないと成功できないというわけではない。世の中は完璧主義者ではないものが時代を席巻する例も多い。

スティーブ・ジョブズの生み出した製品は美しかったが、パソコンは大して美しくもないマイクロソフトの製品が時代を席巻した。

三島由紀夫の作品は美しいが、『仮面の告白』が刊行された1949年は、世の中は大して美しくも緻密でもないカストリ紙のエログロ低俗作品が氾濫して時代を席巻していた。

カラヤンは名指揮者であり素晴らしい音楽を奏でていたが、その時期に時代を席巻していたのは粗野で単純で粗製濫造されていたロックだった。

合理的に生きるのであれば、完璧主義者になるよりも現実主義者になる方がいい。現実主義者は現実を見据えて生きている分だけ的確な判断ができるからだ。

すべてにおいて合理的であることはできない。しかし、合理的ではないことを自覚して、他で挽回できるのが現実主義者の良いところだ。早い話が生き方に柔軟性がある。

完璧主義であることは総合的に見ると素晴らしい生き方であるのだが、彼らは完璧であることに拘泥しているので、そこにはまり込むと自分自身を破壊する危険な生き方にもなり得る。

完璧主義は「強い薬」によく似ている。

強い薬は素晴らしい効用を見せるかもしれないが、使い方を間違えると自分を破壊する副作用に見舞われる。そのため、それは効果的に使われなければならない。

強い薬は副作用が強いが故に気安く使えないのだ。最も重要な部分で最適に使われなければならない。

完璧主義も、最も重要な部分で使われて効力を発揮する。

いつでもどこでも何にでも完璧主義であれば、それが副作用となって自分の人生を破壊する。なぜなら、すべてにおいて完璧であることは不可能だからだ。

不可能を目指すのは無駄に終わる。無駄なことはしないのが無駄のない生き方だ。やる意味のないことを完璧にやっても意味がない。

もし完璧主義者であろうとするならば、本当に必要なある一点において使われなければならず、それ以外は完璧主義であってはいけないということを意味している。

これは、つまり完璧主義者は自分の人生で最も重要な部分以外では完璧でないことを自覚し、まわりにそれを認知してもらう必要がある。

しかし、本物の完璧主義者はこのような柔軟性を持たないので、恐らくそれができない。そのため、最終的には現実主義者の方が社会で生き残る確率が高い。

自分が完璧ではないのと同様に、社会も完璧ではない。完璧が目指せないのであれば、合理的な判断でどちらでも転べる現実主義者は強い。

私なら完璧主義者よりも現実主義者を選ぶ。



いつでもどこでも何にでも完璧主義であれば、それが副作用となって自分の人生を破壊する。なぜなら、すべてにおいて完璧であることは不可能だからだ。不可能を目指すのは無駄に終わる。無駄なことはしないのが無駄のない生き方だ。やる意味のないことを完璧にやっても意味がない。



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