妙な話だが、地獄に堕ちてもそれなりに生きられる人もいる。

たとえば若くしてドロップアウトして、仕事もしないで長旅や東南アジアの貧困地区に沈没していたにも関わらず、なかなか経済破綻しない人もいる。

通常であれば、そのような「正しくない人生」を送っている人は、その多くが経済的に困窮するのだが、なぜか運が良い人がいるのだ。

あるいは売春する女性たちと何千人も関わっても、深刻な性病にかからない人もいる。

インドでは「2人に1人がエイズ」と言われているような荒んだ売春地帯があるが、そんなところにいてもHIVに感染しない男がいる。

何百回も飛行機に乗り、途上国で現地の危ないバスやタクシーに乗り、バイクにまたがり、それでも交通事故に巻き込まれないで済む人もいる。

別に助かる準備をしていたとか、身体を鍛えていたとか、理性的に行動したというわけではない。また、精神的に強靭だったとか、ストレスに強かったというわけではない。まして、日頃の行いが良かったわけではない。

ただ単に、運が良いとしか言いようがない人がいる。


生きるか死ぬかは、単なる偶然の産物だった


逆に、タイの歓楽街でたった一度の関わりで、HIVに感染した人もいる。最初の一度でHIV感染はさすがにショックが大きいに違いない。

「コンドームはしなかったのか」という疑問もあるかもしれないが、コンドームも完全ではない。歓楽街はアルコールもしこたま入っているし、誰もがうまく安全なセックスができるわけではないのだ。

ある別の人は、コンドームをしていたにも関わらず淋病にかかったと話す。貧困地区の売春する女性の中には「コンドームがもったいない」と言って、洗って使い回しすることがあるのを彼は知らなかった。

プノンペンの売春地帯で逮捕された人も殺された人もいる。タイで交通事故に巻き込まれて死んだ人もいれば、フィリピンで殺された人もよくニュースになっている。

誰が助かって、誰が助からなかったというのは、特に何らかのパターンがあるわけではない。単なる「偶然」が作用していたというのが現実だ。

あまり認めたくない人もいるかもしれないが、何かの場面で助かるかどうかは、その人が善人や正しい人であるかどうかとあまり関係がない。

宗教家に言わせれば、運が良い悪いも、因果応報ということになるのだろうが、人生と運命は因果応報では語れない。

悪行の限りを尽くしてのうのうと生き残る人間もいれば、善意の限りを尽くしても非業の死を遂げることもある。

カンボジア国民を100万人も大虐殺したカンボジアのポル・ポトは、地雷に囲まれたジャングルの中で仲間と共に暮らし、73歳まで生存していた。意外に長生きした。

大虐殺者であるソビエトのヨシフ・スターリンも75歳まで生きている。人類史上に残る大虐殺者ならさぞかし早死にするのかと思ったら、まったくそうではない。

悪人であっても長生きする人はする。逆に「正しい人」であっても悲惨極まりない人生の中で死ぬ人も多い。「正しい人」になっても、良運が向くわけではない。多くの人は、このあたりを本能的に間違っている。

「良いことをしたら良い結果が返る」は現実ではない


「良いことをしたら良い結果が返る」と言われたら、戦争で死んでいった人たちや、虐殺に遭った人たちや、内戦で悲惨な人生を送るしかない人たちを思い浮かべて疑問を持たなければならない。

ドイツで虐殺されたユダヤ人は誰ひとりとして良いことをしなかったのだろうか。

広島・長崎の原爆で死んでいった約40万人の日本国民は誰ひとりとして良いことをしなかったのだろうか。

ISIS(イスラム国)の凄まじい暴力で犠牲になったシリア人やイラク人は誰ひとりとして良いことをしなかったのだろうか。

そんなことは絶対にない。無残に殺された人たちの中には、誰よりも善人で、誰よりも神仏を信じ、誰よりも正しい行いをして生きてきた人も多かったはずだ。

「良いことをしたら良い結果が返る」という因果応報は、客観的に考えると成り立たない。

つまり、善行を積もうが、神をどんなに信じようが、金持ちだろうが貧乏人だろうが、楽観的にいようが、運の良し悪しにまったく何の関係がない。

どんな時代のどんな場所のどんな境遇の人でも、運の良い悪人もいれば、運の悪い善人もいる。

事故が起きて、隣の人が死んでその隣が生きているのは、「たまたま」そうなっただけで、必然性はまったくないのだ。

私たちは無意識に、正しい人は生き残り、正しくない人は報いを受けるべきだと考える。そして、正しい人は運をつかむことができると信じている。

残念ながら、世の中はそれほど「きれい」にできていないのが現実だ。

よくよく考えると、「正しい人」になるよりも、「正しい選択ができる人」の方が可能性がある。

不運が襲いかかれば何をしても地獄に堕ちる。しかし、どこに転がり堕ちても、そこで正しい選択をし続けるというのは無駄ではないはずだ。

「正しい選択」を繰り返せば突破口が見出せる


運は自分では何ともできない。そのため、自分の人生が運に翻弄されるのは覚悟しておくべきだ。しかし、現実主義者にはどこかに転がり堕ちた後でもできることがある。

確かに運は変えられないのだが、その時々で「正しい選択」を続けていれば、意外に運の良い人生に近いところまで辿り付けることもある。

岐路に立ったとき、そのたびに間違った選択を10回した人と正しい選択を10回した人は、長い目で見ると人生が天と地ほど変わってくるはずだ。

地獄の中でも、非合理な決断をした人と合理的な決断をした人、無鉄砲な決断をした人と慎重な決断をした人、感情のまま愚かな決断をした人と熟考して賢明な決断をした人は、その後の人生がまったく違ってくる。

どんな生き方をしている人であっても、一瞬に地獄に突き落とされることがあるのだが、それでも正しい選択ができている人は運がなくても這い上がれる確率は高まる。

地獄はどこにでもある。地獄には誰でも堕ちる。長い人生の中で逆境はいつでも私たちを襲いかかる。世の中は平和でも、自分の判断ミスで自分だけが地獄に転がり堕ちることもある。

人生は何だって起こり得る。

しかし地獄に堕ちて生命がまだ残っていれば、そこからがスタートになる。

その地獄の現状を正確に把握し、何らかの選択が必要なときには、その都度「正しい選択」を繰り返せば突破口が見出せる確率が高まる。

「正しい人」になるのを選択するのではなく、「正しい選択ができる人」になるのだ。

例によって「運が作用する」ので絶対に突破口が開くわけではないのだが、正しい選択をし続ける価値はある。

世の中は「きれい」にできていないし、何をどう努力しても不運に潰されることもあるのだが、それでも正しい選択をするというのは無駄にはならない。

それは、正しい人になるよりは生き残れる。



カンボジアのキリング・フィールド。ポル・ポトは、カンボジア国民を100万人も大虐殺した。この世は「正しい人」が必ずしも生き残るようにはできていない。



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