優しい性格の人と一緒にいると心が洗われる。優しい人と一緒にいると、とても安心できる。その優しさは殺伐とした社会だからこそ貴重でもある。

ところが、このような人たちは往々にして社会の犠牲になる。なぜなら、社会は優しくないからである。この世には強欲で、自己中心的で、粗野で、暴力的で、他人を踏みにじっても何とも思わない人たちがサメのように旋回している。

そして、優しい人の優しさに付け入って、自分の都合の良いように徹底収奪していくのである。優しい人は食い散らかされていくと言っても過言ではない。

その光景は残酷だ。優しい人は、社会に無理難題を押しつけられても拒絶できない。優しい人は、強欲な人に何かを頼まれたら断れない。優しい人は、相手が悪意を持っていると分かっていても拒絶できない。

優しさは、そうやって優しさに重きを持たない人に容易に踏みにじられて使い捨てにされる。

しかし、優しい人は優しいがゆえに自分が社会の犠牲になったことを声高に叫ぶことはないし、謝罪しろ賠償しろと相手にねじ込むこともない。相手に配慮する優しさがあるので、その優しさに自分が潰されていく。


優しい人は、社会からどんな目に遭わされるのか?


優しい人は、理不尽を受容する。自分が我慢すれば丸く収まると思えば、自分自身が不利であってもそれを受け入れる。自分が損することになってもそれを受け入れる。

優しい人は、言い返さない。相手が間違っていると思っても対立したくないがために、言葉を飲み込んでしまう。討論はしないし、性格的に討論ができない。

優しい人は、自分を責める。自分が追い込まれても、窮地に落ちても、明らかに自分が悪くないとしても、それでも自分を責める。自分がもっとうまく立ち回っていたら何とかなったはずだと自分を責め続ける。

優しい人は、騙される。明らかにおかしな話であっても、あきらかに破綻した話であっても、それを疑っては相手に悪いと思って疑いを持つ自分を責め、そして結果的に騙される。「後で返すから金を貸してくれ」と言われて、断れずに金を貸すのも優しい人の特徴だ。

優しい人は、窮地に落ちる。優しい人は相手の苦境が敏感に分かるので、相手に手を差し伸べたくなってしまう。そのため、相手を助けることに自分の時間と金と労力をかけるので、今度は自分が窮地に落ちる。

優しい人は、自分の身体を壊す。人は誰でも身体の不調があるが優しい人は休みたいと言えず、自分が休んだときにまわりに迷惑をかけると思ったらそれだけで休めなくなる。まわりに迷惑をかけるくらいなら自分が苦しんだ方がいいと思って無理をして結果的に身体を壊してしまう。

優しい人は、心が壊れる。世の中の理不尽、社会の矛盾、人間関係の軋轢に、優しい人は極限まで我慢し、ぎりぎりまで耐え、やがて耐えられる限界を超えて自分の心を壊してしまう。「もう駄目だ」と言えないので、自分の心が壊れていく。

優しい人は、狙われる。優しい人は、まわりから「何をやっても我慢するはずだ」と思われているので、イジメのターゲットになりやすく、被害者になりやすく、被害を受けてもそれを隠す傾向があるので、より狙われていく。

優しい人は、奪われる。なぜなら、優しい人から奪うのは簡単だと思われているので、誰も彼もが優しい人から奪っていくからだ。優しい人は自分が持っている大切なものまで強引に奪われていく。

優しい人は、何も手に入らない。優しい人は「何も上げなくても文句は言ってこない」と思われているので、分配は常に最後になる。そして時には意図的に外される。それでも優しい人は我慢してしまうので、結局何も手に入らない。

優しい人は、面倒に巻き込まれる。厄介な人間に厄介ごとを持ち込まれても拒絶することができないので、ずるずると厄介ごとに足を取られていく。状況がどんどん悪化しても他人のせいにしないので、やがては面倒なことがすべて自分の問題になってしまう。

人間は、心の中にある優しさを意図的に捨てていく


程度の差こそあれ、優しい人は常に損する立場にある。優しさは、苛烈な社会、悪人がうようよとしている社会、あるいは弱肉強食の資本主義の中では、常に弱者の立場に落とされる。

私は社会の最底辺をさまよい歩き、どん底に落とされている人たちとずっと一緒にいたのだが、そこには本当に優しい人たちも多かった。

彼らには慈愛があったし、一緒にいる安堵感もあった。彼らには共鳴したし、その優しさに私は深い感動を覚えた。この彼らの優しさを私は共有したいと思ったし、優しさを与えてくれる彼らに自分なりの優しさで返したいとも思った。

貧困地区のスラム売春のエリアに堕とされた女性たちの中には天使のような女性もたくさんいる。堕とされた女性たちの中には地獄の使者のような女性もいるのだが、逆に聖母マリアなのかと思うほど優しい女性もいるのだ。

彼女たちは何も持っていないのに、最大限のもてなしを私にしてくれた。優しさを与えてくれるというのは、人間関係の中で相手に与えられる最上級のものであり、その優しさは私の宝物でもある。

私は彼女たちの優しさが間違っていると思ったことは一度もないし、彼女ひとりひとりが持つ優しさを捨てて欲しいと思ったこともない。私は彼女たちが優しいままでいてほしいと心から願っている。

しかし、社会は誰も優しさを評価しない。人々は優しい人たちを踏みにじり、弱肉強食の資本主義も優しい人たちをどん底にまで突き落とす。

それが、やるせない。「なぜ、こんな優しい人たちが評価されないのか」と怒りに震えることもある。

粗暴さと暴力、狡猾さ、相手を騙す能力、無理難題を主張する悪辣さ、利己主義などは、それが悪であるにも関わらず、そこから利益を生み出すことができるので大いに評価される。

しかし、優しさは評価されることはない。

社会は基本的に力のある者を評価して、力によって踏みにじられる側を無視する。優しさは踏みにじられる側であり、だから評価されることはない。

評価されることがないので、誰もが自分の心の中にある優しさを意図的に捨てていく。生きていくためには、優しさだけではどうしようもない現実があるので、その選択も間違っているわけではない。

天国は概念であり、そんなものは存在しない


イギリスの思想家トマス・モアは「ユートピア」という概念を提唱して、現実社会と対比させることによって現実がいかに歪んだものであるかを浮かび上がらせた。

ユートピアは、日本語で「理想郷」と書く。

多くの人が理想郷(ユートピア)を思い浮かべるとき、そこには争いのない「優しい世界」を想像するはずだ。

誰もが仲良く、誰もがにこやかで、誰もが優しく、思いやりがある。そんな社会で暮らしたいと人々は心から願う。それが理想であり、ユートピアであると思う。

キリスト教やイスラム教が強調する「天国」という概念も、基本的にユートピアと同じ世界である。愛と優しさと慈しみに包まれた世界、苦しみと悲しみがない世界。それが天国だ。死んだら誰もがそんな世界に行きたいと願う。

仏教が強調する「極楽」という概念も同様だ。そこは「幸福にみちみちている世界」であるとされている。

そこは暑くも寒くもなく、飢えも貧困もなく、知恵と慈悲が無限にある世界であると言われている。「慈愛」とは「慈しみ愛すること」である。それは究極の「優しさ」を表現している。

そんな世界に暮らしてみたいと人々は願い、だから人々は徳を積もうと思ったり、神仏を信じようと思ったり、因果応報という概念を信じたりする。

誰もが優しい世界に生きたい、そんな理想の世界で暮らしたいと強く思っているのである。

ところが、いざ現実を振り返ると、何と理想郷や天国や極楽浄土を求めている同じ人が、優しい人たちを理不尽なまでに痛めつけ、恫喝し、攻撃し、搾取し、窮地に落とし、壊れるまでいじめ、奪い、災厄をもたらしている。

「優しい人間は駄目だ」と嘲笑し、生きるのが下手だと説教し、自業自得だと見捨てる。そして、自分がいかに社会をうまく立ち回っているのか自慢し、どん底に落ちた優しい人たちを尻目に優越感に浸る。

そんな人たちが、死んだら天国に行きたいとか何とか言っているのだから、その傲慢さは大したものだ。言うまでもないが、天国などはひとつの概念(コンセプト)であり、そんなものはどこにも存在しない。

もちろん地獄もないのだが、地獄に近い場所はある。私たちが今生きている現実である。優しさを評価しないのだから、地獄のような社会が生まれて当然だ。





社会は「優しい人間は駄目だ」と嘲笑し、生きるのが下手だと説教し、自業自得だと見捨てる。そして、自分がいかに社会をうまく立ち回っているのか自慢し、どん底に落ちた優しい人たちを尻目に優越感に浸る。私たちの社会は優しさを評価しない。だから地獄のような社会が生まれて当然だ。



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