ハイエナの夜
光と闇があれば、多くの人は光に惹かれる。光は希望の象徴でもあり、エネルギーの印象である。だから世界中どこでも「光」や光のイメージの名前がよく見られる。

欧米では「ライト(Light)」「シャイン(Shine)」「グレアム(Gleam)」等、光に関する名前は人気だし、日本でも「光」や「輝」の漢字を使った名前の人はたくさんいる。

一方で、「闇」「暗」という名前を持つ人はほとんどいない。絶対にいないとは言わないが一般化することはない。明るいものは生をイメージするが、暗いものは死をイメージする。

自分の子供の名前に死が暗示されたような単語や文字を組み込みたい親はさすがにいないということだ。

人間は本能的に明るいもの、輝いているもの、派手なもの、華やかなもの、に惹かれていく性質があり、その性質は覆すことはできない。

しかし、100人中100人がそうであるとは限らないのが人間の面白いところであり、多様なところでもある。

世の中には、光よりも闇を、昼よりも夜を、明るいものより暗いものを、喜びよりも悲しみを、愛よりも憎しみを志向する人も少なからず存在するのである。


私は本当に明るく華やかな女性が好きだったのか?


まだ二十歳くらいのとき、私自身はごく普通の感覚を持った青年であったと自分では思っている。女性の好みもそうだった。明るく、楽しく、美しい女性が好きだった。

誰もが好きになるタイプの女性を私も好きになった。世間の男たちの好みと、私の好みは合致していた。「明るい女性、華やかな女性、キラキラしている女性」が好きだったのだ。

女性の魅力はそこにあるのだから、それを外したら女性を追い求める意味がないとも考えたりした。

しかし、いつしか東南アジアの夜の女たちと付き合うようになり、そこで来る日も来る日も「明るい女性、華やかな女性、キラキラしている女性」と出会い続けた結果、何となく私は自分の好みに疑問を持つようになっていった。

東南アジアのゴーゴーバーでは、弾けるような若さと明るい笑みを持った女性が圧倒的に好まれる。こうした女性たちには華があって、本当に魅力的だ。

私は必死になって彼女たちに振り向いてもらいたいと願い、こんな華のある美人な子と一緒の時間を過ごせたら幸せだろうなと思いながら彼女たちを追い求めた。

しかし、見渡せば売春地帯は多様性の宝庫だった。

明るくて、華やかな女性だけでなく、明るくないけれども優しい女性もいたし、華やかではないけれども忘れられない女性もたくさんいた。

キラキラしていないけれども素朴な美しさを持つ女性もいたし、むしろ意図的にキラキラしたものを排してナチュラルな格好で売春地帯にいる女性もいた。

私はこうした女性たちとも多く付き合って、いろんなことを一晩語り明かしたり、楽しく食事したり、彼女の優しさに触れたりした。

みんな素敵な女性だった。売春地帯での付き合いはほんの一日、長くても数日くらいで終わりだ。しかし、別れた後も忘れられない女性が多かった。そんな女性たちの想い出が心の中で積み重なっていった。



東南アジアのゴーゴーバーでは、弾けるような若さと明るい笑みを持った女性が圧倒的に好まれる。こうした女性たちには華があって、本当に魅力的だ。

なぜ自分が世間の好みに追随する必要があるのか?


そうした女性たちと付き合っていくうちに、私の内面はほんの数年で変化したように思う。

次第に私は本当に「明るく楽しい女性」が好きなのだろうかと自問自答するようになっていた。

売春地帯の喧噪に疲れて、バンコクの外れの安宿の軋むベッドに寝転がりながら、そばに居て欲しい女性を考える日もたまにある。

そうすると、明るく華やかでキラキラした女性よりも、そうではないが印象に残った女性ばかりを思い出した。

明るい女性よりも、どこか陰を持つ孤独な女性が心に残って、思い出すのはそんな女性ばかりになった。華やかな女性や派手な女性よりも、ほとんど自然体でいる女性の方に心が落ち着くようになっていたのだ。

それだけではなかった。

私は明確に、闇を抱えた女性、闇にどっぷりと浸っている女性、とてつもなく重い十字架を抱えて生きている女性と一緒にいたいことに気が付いた。明るい女性ではなく、むしろ闇が似合う女性に惚れていた。

私はどうも世間一般とは違って、まるっきり逆のタイプの方に惹かれることに気がついた。自分の好む女性のイメージは、世間とは正反対だったのである。

「あっ」と私は思ったものだった。なぜ自分は今まで世間が好ましいと思う女性を無理に好きになろうと思っていたのかと洗脳が解けたような気持ちがした。

世間の男たちの多くが明るく華やかでキラキラした女性を好むのは勝手だが、「なぜ自分がそれに追随する必要があるのか?」と当たり前のことに気付いたのだ。

私は表の社会よりも、売春地帯のような裏側の社会に惹かれた。それは思春期の反抗心ような意地の張ったものではなく、自然にそういった世界に自分の居場所を見い出していた。

その瞬間、私の好む女性は、世間が好む女性とは大きく外れていったと言って過言ではない。自信を持って私は逸脱できる。自分が「彼女は良い」と思えば、彼女は良いのだ。私には世間の目や評価は関係なくなった。



私は表の社会よりも、売春地帯のような裏側の社会に惹かれた。それは思春期の反抗心ような意地の張ったものではなく、自然にそういった世界に自分の居場所を見い出していた。

多くの人がそうだったとしても自分はそうなのか?


私はドロップアウトして東南アジアの売春地帯に堕ちたけれども、完全に堕ちる前は何度も更生する機会を自分に与えては失敗していた。

自分を売春地帯から切り離そうと努力したが無駄だった。結局、私はアンダーグラウンドが好きだった。(白昼夢。「普通の人間」になろうと努力していたときのこと

だから以後は惹かれる女性に関しても、どこか孤独でもがいているような女性ばかりになった。私は闇の女性が好きだったのだ。それはもう否定できない事実だった。今も基本的には変わっていない。

普通、こういったアンダーグラウンドの世界はあまり好まれない。人々は光を愛し、闇を嫌う。人は自然と明るい世界に惹かれていく。これは人間の習性と言ってもいい。

しかし、多くの人がそうだったとしても、自分がそうであるとは限らない。そこが重要だ。

私がそうだったように、もしかしたら多くの人が今も本当は好きでないものを好きだと思い込んでいるだけなのかもしれない。自分の心を客観的に見つめていないのかもしれない。

その時々のアイドルや、世間がちやほやしている誰かが好きだと思っていても本心は違うのかも知れない。自分の心の本音の部分をのぞくと、実はまるで正反対のものが好きだったというのはあり得る。

心の闇を見つめた結果、自分の本音が世間とは大きくズレてしまっていることに気付く人がいても不思議ではない。

私は20代の半ばで、自分が堕落に惹かれ、退廃に惹かれ、孤独に惹かれ、光よりも闇そのものを見つめるのが好きであることを発見した。そして、その闇をまとったような女性を愛していることにも気付いた。

それは世間とは正反対だったので、闇に惹かれてその世界に突き進むのは恐ろしかった。しかし、今では自分の好きな女性に没頭できて、逆に幸せだったのかもしれないと思うようになった。

私は普通でない女性が好きだ。堕落していて、夜の世界に生きていて、底知れぬ闇を持った女性が好きだ。そんな女性が好きで好きで仕方がない。



自分を売春地帯から切り離そうと努力したが無駄だった。結局、私はアンダーグラウンドが好きだった。だから以後は惹かれる女性に関しても、どこか孤独でもがいているような女性ばかりになった。私は闇の女性が好きだったのだ。それはもう否定できない事実だった。



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