日本人は最近になってやっと「価値感の相違」は埋められないことがあると理解するようになった。文化の違いや性格の違いは時には克服できないこともある。

たとえば、誰かが詐欺で騙された場合、日本人は「騙す方が悪い」と思うが、中には「騙される方が悪い」と被害に遭った側を嘲笑する民族や性格の人がいる。

日本人は「宗教を盲信して殺し合うのは無意味だ」と思うが、中には「自分の神が冒涜されたら死ぬまで戦う」と毅然と宣言する民族や性格の人がいる。

同じ日本人の中にも「日本が培ってきた伝統や文化が何よりも大切」と思う人もいれば「日本の伝統や文化は捨ててグローバル化を受け入れる方が大切」と思う人もいる。

経済的にも、「したいことを何もしないで金を貯めるより今を楽しむ方が大切」と思う人もいれば「したいことを何でもするよりもきちんと貯金する方が大切」と思う人もいる。

こうした「価値感の相違」で対立した場合、どんなに時間をかけて話し合っても無駄なことが多い。価値感はすでにその人の無意識のレベルにまで落とし込まれており、話し合ったくらいで変えられないのが普通だからだ。

まして相手に「変えろ」と言われたら、よけいに変えられない。反発や怒りが先にくる。


「それが駄目だ」という文化では育っていない


少しでも海外に出たことがある人は、その短い体験だけでも身に染みて学ぶのは、価値感が違うと「いくら話しても溝が埋まらない」ということだ。

言葉が通じていなかったとか、誤解されて納得されたというのではなく、しっかりと事実確認をしたにも関わらず、分かってくれない。

たとえば、カンボジアで現地の女性とホテルにいたとき、彼女は果物のゴミを平気で床に投げ捨てた。あるいは、バラック小屋に住んでいる貧しいカンボジア女性と一緒にいたとき、彼女たちは平気で床にツバを吐き捨てた。

インドでもゴミはどこでも捨てるのが普通だし、駅のホームで列車が来るのを待っている女性が、線路に向かってツバを吐く姿も珍しくない。

私が好きだったスリランカの女性リーパは、煙草を吸い終わると、それを浴槽に投げ捨てていた。シャワーを浴びるときは、もちろん吸い殻を捨てた浴槽を使う。(リーパ。ゲイランの街に立つ女の凶悪な目付きに惹かれた

彼女たちにとってゴミは床に捨て、煙草は浴槽に捨て、ツバはどこでも好きに吐けるものだったのである。

煙草をところ構わず捨てるインドネシアの男も、食事中に口に入った骨の欠片をテーブルの下に吐き捨てる中国人も、ビニール袋を道路にポイ捨てするインド人も珍しくない。

それが良くないと言えば、私に配慮して恐らくその場では止めるだろうが、翌日には何事もなく煙草の吸い殻を捨て、口の中のものをテーブル脇に吐き捨てるだろう。

なぜなら、彼らは「それが駄目だという文化では育っていない」からだ。価値感が違っていて、彼らにとっては煙草の吸い殻を気軽に捨てられないことが変なのだ。

逆に日本人に、「ゴミをところ構わず捨ててもいい」「煙草の吸い殻も好きに捨てていい」「口の中のものも吐き捨てていい」と言っても、やらない人のほうが多いと思う。

なぜなら「それが駄目だという文化で育った」からだ。ゴミをところ構わず捨てる彼らの前では、それをしない私が異常なのである。

価値感の相違は、ありとあらゆる部分に存在する


ゴミに対する感覚は、無限の「違い」のうちのひとつである。「価値感」というのは、こうした細かいところでひとつひとつ違っている。

「価値感」は外国と日本の文化的な違いだけでなく、日本人同士でも違いがいくらでもある。

自分や相手が育ってきた時代や、育った場所や、育った環境や、親の性格で、ライフスタイルも考え方も、まるっきり違ってしまう。

だから、同じ日本人でも年配の人と若者とは話す言葉も違えば、考え方も違う。

若者がいくら「今はこうだ」と言っても年配者は理解できないかもしれないし、逆に年配者がいくら「そんなことをしては駄目だ」と言っても若者には理解できない。

世代間の価値感のギャップは、年が10歳違えばまったく違うと言われている。好む音楽も、好むファッションも、別人種のように違ってしまっている。

タトゥーやマリファナに関しても、ある人がどれだけ嫌悪しようと、ある人は「それがクールだ」と真逆の価値感であるかもしれない。

そして、こうした価値感の相違は、どれだけ話しても溝が埋まらないことが多い。理解どころか、拒絶感の方が先に立って歩み寄れないのである。

スポーツが好きな人は、晴れた日に勉強している同級生が理解できない。目的があって勉強している人は、晴れているからと遊び呆けている同級生が理解できない。

自営業の人間は、人に使われて暮らしているサラリーマンが理解できないし、サラリーマンは生活が不安定な自営業の人間が理解できない。

男は女性が細かいことを気にするのが理解できないし、女性は男がすべてに大雑把なのが理解できない。価値感の相違は、ありとあらゆる部分に存在する。

もし自分の人生の重要な部分で相手と価値感が違えば、自分も相手もそれが譲れないのであれば、いくら時間をかけてもうまくいかない可能性の方が高い。

自分の好きにやって理解されないほうが精神的に楽


価値感の違う相手を変えようと思っても変えられないことの方が多いし、無理に変えさせようとすると激しい対立や衝突を生む可能性もある。

それが相手によって大切な価値感である場合、それを変えさせるというのは相手のアイデンティティを崩壊させるも同然だからである。

だから、現実問題としては、「どうしても、価値感の違う人がいる」ことを受け入れるしかない。そうした人を変えられるとは思わないほうがいい。

イスラム原理主義の男に「女性の自由」をいくら説いても絶対に理解しないはずだ。逆に欧米の女性に「男尊女卑」を説いても絶対に理解しないはずだ。

互いに「そんなものを理解するくらいなら死ぬ」と言い出すはずだ。

価値感の相違というのは、そういうものなのだ。だから、世の中のすべての人の価値感が理解できると思ってはいけないし、逆に自分の価値感がすべての人に受け入れてもらえると思ってもいけない。

絶対に受け入れられない価値感を持つ人が世の中にはいるし、逆に自分の価値感を絶対に受け入れてくれない人もいる。

それが現実だ。

しかし、別に悩む必要はまったくない。今の価値感で特に日常生活に支障がない限りは、自分自身を変える必要はない。自分のやりたいようにすればいいし、自分が心地良いと思う考え方をすればいい。

相手がそれを受け入れてくれれば嬉しいことだし、受け入れてくれなければ、それはそれでいいと思うべきだ。

相手の価値感が納得できなければ去ればいいし、相手が自分の価値感を受け入れてくれなければ、受け入れてくれるところにいけばいい。そこに固執する理由はない。

自分の価値感が日常の社会的規範から逸脱していないのであれば、その範囲で自分が何をして、何を考えて、何を信じて、何を好きになってもいい。

理解してくれない人に理解してもらう必要はない。

相互理解に向かって努力するのは、徒労に終わる確率が高いし、難関度が高い。相手を変えるのも自分を変えるのも難しいのだから、自分を歓迎してくれるところに行く方がずっと早いし合理的でもある。

自分の居場所を見つけて好きにやればいい。つまり、我が道を行けばいいということだ。他人の価値感に合わせても無駄なのだから……。

最後にひとこと。

リーパはタバコ中毒で、浴槽にタバコの吸い殻を投げ入れて捨てていたが、私はやれやれと思いながら今でもリーパが懐かしいし、彼女に好感情を持ち続けている。彼女がとても好きだったし、今でも好きだ。価値感が違っても好きだという感情が価値感の違いを自然に克服していた。そういうこともある。



タトゥーをたくさん入れた女性。タトゥーやマリファナに関しても、ある人がどれだけ嫌悪しようと、ある人は「それがクールだ」と真逆の価値感であるかもしれない。そして、こうした価値感の相違は、どれだけ話しても溝が埋まらないことが多い。



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