アンダーグラウンドには、自分で働くよりも稼いでいる女性に寄生して金をとことん吸い取る生き方をする人間が少なくない数で存在する。

だから、女に寄生するための方法のようなものが人知れず伝授されていたりする。(女に食わせてもらうためにやっている男たちの手口とは?

こういった男のことを、夜の女たちは「ストロー」と呼ぶこともある。男がストローのように自分の稼ぎをみんな吸い取ってしまうことからきている。

夜の世界では、誰が信用できて誰が信用できないのか分からない。心がすり切れてしまうような殺伐とした世界だ。

その中で生きている女性の寂しさや隙を突いて、このような男たちが金目当てに寄って女性に取り付いていく。

では、他人に寄生して生きるのは良いことなのか。もちろん、それは良いことではない。道徳的に反しているし、何よりもそれは女性を疲弊させ、女性の心身を消耗させ、女性の人生をも破壊してしまう元になる。

それは持続不可能なライフスタイルである。そして、いずれ自分の人生を縛るワナになる。


寄生をやめたら金が入らないので、やめられない


他人の稼ぎにべったりと寄生して生きているジゴロやホストやヒモのような人間たちは、とても要領良く生きているように見えるかもしれない。

それは「自由な生き方」のようにさえ見えるかもしれない。憧れる男もいるはずだ。

しかし、本当にそうなのだろうか……。

それをうまくやれば「楽な人生」に見えるのだが、実際には楽なわけでも自由なわけでもない。自由どころか、自分を束縛する生き方になる。

なぜ寄生が自分を束縛することになるのかというと、常に相手にべったりとくっついて生きなければならないからである。

離れてしまえば寄生ができない。だから、自分で自分の自由を束縛して、ひたすら宿主に付いてまわる。その結果、自分の行動範囲が極度に狭まる。

好きな時に好きな場所にいくような自由はない。自由が欲しければ寄生をやめるしかないが、寄生をやめたら金が入らないので、やめられないのである。それが寄生者の人生だ。

さらに、宿主に付いてまわるだけではなく、常に宿主の顔色を窺いながら生きなければならない。切られないように顔色を窺い続けなければならない。

つまり寄生者は、うまく宿主を操っているように見えても、常に宿主に翻弄され対処を余儀なくされる。寄生しているのだから強いように見えて、その立場はとても脆弱だ。

寄生されて自分の稼ぎがストローで吸われるのを好ましく感じる宿主はどこにもいないので、その関係は常に緊張をはらんでいる。

宿主が放逐を決めたら、寄生は突如として中断される。また宿主が倒れれば自分も路頭に迷い、次の寄生先が都合よく見つかるとも限らない。

「借りる者は貸す人の奴隷となる」という現象


それはうまくやっていても、限りなく不安定極まりない生き方である。

寄生とは依存の一種だ。

寄生する方法を磨くというのは、他人に依存して生きる能力を磨いているわけであり、決して自立に向かっているわけではない。自立に向かわない生き方は、結局は最後に自分を奴隷的な立場におとしめる。

だから、それは正しい生き方ではない。自らを依存体質にして、最終的には奴隷的な立場に自らを追いやる。自分で自分を奴隷に追いやる生き方なのである。

こうした依存体質の人間を好きな民族はどこにもないはずだが、特に他人に依存したり寄生したりして生きるのを嫌うのは伝統的なユダヤ人であると言われている。

ユダヤ人は旧約聖書を、人生を貫く軸として繰り返し読み起こし、自分の血肉になるまで反復する民族だ。その旧約聖書の箴言の22章にはソロモン王の箴言が重々しく刻まれているのだが、その中にある言葉が記されている。

「借りる者は貸す人の奴隷となる」

他人に依存して生きるというのは、それが「借り」となってどんどん相手に束縛され、遂には奴隷のようになり果てるとユダヤ人は激しく自分の民族に警鐘を鳴らす。そして、他人に経済依存して生きることを厳しく戒める。

この「借りる者は貸す人の奴隷となる」という現象は、彼らの経典であるタルムードにも繰り返し言葉を変えて警告されている。

なぜ、ユダヤ人は他人に束縛されて「奴隷のようになり果てる」のをそれほど強く自分の民族に警告を発し続けたのか。それは、ユダヤ人のアイデンティティは「奴隷」から始まっているからである。

自分たちの祖先は「奴隷」だった。ユダヤ人は国を失い、他国を流浪し、差別されながら生き延びてきたのだが、だから再び奴隷になるというのは民族的トラウマのようになっている。

それ故に、誰かに依存して「奴隷のようになり果てる」ことに対して、激しく警鐘を鳴らし、そうならないように経済的な自立を成し遂げるように強く説いているのである。

「労働こそ人間生活の基礎」と説いたユダヤ人


キリスト教徒は労働を「神からの呪いである」と解釈した。

「エデンの園でアダムとイヴは労働をすることもなく本能の赴くがまま楽しく生きていた。しかし、神との約束を破ったためにエデンの園を追放され、苦しい労働をして生きなければならない運命に落ちた……」

そのようにキリスト教徒は考えた。

しかし、「奴隷」から民族の起源が起こされたユダヤ人は、奴隷に戻らないためには、経済的な自立が必要であり、それが成し遂げて初めて人格的自由も得られると考えたので、労働を呪いのように思うことはなかった。

たとえば、イスラエル建国の父であるベングリオン首相は「労働党」右派の出身であり、建国前の演説でこのように言い切っている。

「肉体労働は人間の崇高な機能であり、人間生活の基礎であり、人間生活の中で最も崇高なものだ」

そしてベングリオン首相は自らパレスチナの砂漠を開墾して水を引く労働で晩年を過ごした。なぜ、ベングリオン首相はそこまで労働を重視したのか。

言うまでもなく「労働こそがユダヤ人の経済的な自立を成し遂げるもの」だと確信していたからだった。

ベングリオン首相は、ユダヤ人を救うのは他人のおこぼれや慈悲に依存して生きることではなく、労働で勝ち取ることであると身を持って示したのである。

ユダヤ人の多くはこの「労働こそ人間生活の基礎」というベングリオン首相の言葉を継承し、迷うことなく労働で経済的な自立と自由を勝ち取っている。寄生や依存ではなく、労働を選び取ったのだ。

日本も1945年の敗戦によって国が焼土になった時にどうしたのか。

日本人は他国の慈悲にすがって支援や援助を口を開けて待つような生き方を選ばなかった。あるいは「謝罪しろ、賠償しろ」と他人を恨んで生きる愚かな道も拒絶した。

日本人は、焼土と化した国を「自らの労働」で建て直すことを選んだのだ。

他人の稼ぎに寄生して生きるのが自由になるのではなく、自らの労働が自由を生み出すというのを日本人は知っていた。泥臭く愚直に生きるのは、いつの時代でも正解だ。

依存ではなく、労働が身を助けたのである。





イスラエル建国の父ダヴィド・ベングリオン首相。とても特徴的な髪をしている。音楽は、映画『栄光への脱出』のテーマソング。この映画はベングリオン首相がまさにイスラエルを建国しようとしていた時の激動を描いているものだった。


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