幼稚園や小学校低学年の子供たちにとって、二十歳の女性はとても「大人」に見える。たとえば、幼稚園の子供たちの中には、二十歳の女性に「おばさん」と言って、女性を愕然とさせることもある。

もちろん、幼稚園の子供たちに悪気があるわけではない。彼らは自分よりもはるかに大きくて、しっかりしていて、物事を分かっている二十歳の女性を「大人」と認識している。だから、二十歳の女性であっても「おばさん」になる。

小学校低学年の子供たちは、大学を出たての20代前半の若い先生でも「何でも知っているすごい大人」である。先生というのは、大人の中の大人なのだ。

では40代以上の人間たちにとって、二十歳の女性はどのように見えているのだろうか。まだまだ少女に近い未熟な感じがする「女の子」の印象を持つ人が多いはずだ。

50代や60代の目から見ると二十歳の女性など、ただの小娘にしか見えないだろう。

「二十歳の女性」を見ても、子供たちが彼女に持つ印象と、中高年たちが彼女に持つ印象は、まるっきり逆さのものであるというのが分かる。

別にどちらが正しいというわけでも間違っているというわけでもない。両方とも彼女を二十歳と認識しているのだが、捉え方は180度違っているのである。


両方とも真実なのだが、捉え方が180度違っている


人間は同じ物を見ても、年代や性格や環境によって、それぞれ捉え方がまったく違ってくる。

コップにちょうど半分の水が入っているのを見て、ある人は「まだ半分ある」と思い、隣の人は「もう半分しかない」と思うことがあっても不思議ではない。

同じものを見て両極端の感じ方になるのだ。どちらも真実なのだが捉え方が180度違っている。まるっきり逆の感覚でとちらも正しいというのが興味深い。

この経験で私が忘れられないことがある。フィリピン・マニラのあるホテルに泊まった時のことだ。

ひどいホテルだった。ドアはガタガタで、浴室のガラスは割れ、ベッドの頭側の壁は陥没しているような、そんな安宿だ。しかも、シャワーを浴びている時に途中から水が出なくなった。

フロントに電話して修理屋に来てもらったとき、その二十歳過ぎくらいの若い痩せた修理工が来たのだが、その青年は部屋を見回してこう言った。

"Nice room!"(素晴らしい部屋だね!)

皮肉なのかと思った。しかし、そうではなくて、彼には本当にそれが素晴らしい部屋に見えたようだ。

彼の家、彼の部屋は、こんなものではなかったのだろう。もしかしたら、スラムのバラック小屋で暮らしているのかもしれない。その可能性は充分にあった。

そんな荒んだ家屋に比べると、このホテルは何倍もキレイで素晴らしい部屋に見えても不思議ではない。

私も彼と一緒に改めてこの「素晴らしい部屋」を見回したが、彼の前では部屋の感想を言うのはやめた。同じ物を見ても、人間は違う捉え方をする。

重要なのは、1つの事実を見て自分がどのように感じても、自分とまったく反対の感覚を持つ人が確実にいるということだ。「感じ方」は人それぞれであり、それが共感の元になったり、反発の元になったりする。

中には分かり合えないこともある。仕方がないことだ。



フィリピンのスラム。1つの事実を見て自分がどのように感じても、自分とまったく反対の感覚を持つ人が確実にいるということだ。「感じ方」は人それぞれだ。それが共感の元になったり、反発の元になったりする。

よく似た部分があっても、突き詰めると何かが違う


私は東南アジアを心から愛していて、東南アジアの女性たちが大好きだ。また二十歳の頃からずっと売春地帯に沈没していて売春する女性たちから人生を学んで来たので、彼女たちから離れられない。

あまりにも彼女たちとの関係が深かったので、今でも普通の人生を送っている女性よりも、真夜中に生きている女性たちの方が馴染みがあるし、彼女たちの感覚が好きだ。

しかし、これは私自身が特殊な人生を歩んで手に入れた特殊な感覚である。売春する女性が好きというのは一般的ではないというのは自覚している。

普通の人は、売春する女性に対して私とは真逆の感覚を持っている。いくら私が売春する女性たちの愛を語っても、普通の人は自分の信念を変えることは絶対にない。

こういった「感覚」や「捉え方」は、その人の生きてきた長い人生の中で、ひとりひとり無限に違っている。

ここで重要なのは、どちらが正しいのか、ということではない。まして、他人に合わせられるようなものでもない。

重要なのは「同じ物を見ても、違う捉え方がある」という部分である。人と自分は「違う」のだ。いろいろ突き詰めて行くと、個人個人は、ありとあらゆる部分で他人と違う。

好みも、考え方も、感受性も、生活習慣も、人生も、他人とよく似た部分があったとしても、突き詰めて行くと何かが違っている。

人生も年代も性別も家族も生きてきた時代も何もかも違うのだから、同じになるということ自体が不可能だ。

違っていても、それは何ら恥じることもないし、驚くこともないし、怒りを感じることもない。

相手に合わせる必要もないし、相手に反論して屈服させる必要もない。そんなことをしても無駄だ。物事を見たときの捉え方は「アイデンティティ」に根ざしたものだからだ。

「もう水が半分だ」を「まだ水が半分だ」に変えさせるのは場合によっては、相手の人間性を破壊することになるかもしれないのである。



個人個人は、ありとあらゆる部分で他人と違う。好みも、考え方も、感受性も、生活習慣も、人生も、他人とよく似た部分があったとしても、突き詰めて行くと何かが違っている。

他人と違う捉え方というのは、実は誇るべき感覚


自分が変わるというのは難しいが、人を変えるというのもまた難しい。違いを克服できないからだ。

相手の性格も、生活習慣も、考え方も、すべてを変えるわけにはいかない。自分が相手の思う通りに動かないのと同様に、相手も自分の思う通りに動けない。

たとえ、親子でも、兄弟でも、夫婦でも、絶対に自分の思い通りにはならないし、捉え方も同じにならないのである。

実は、ここが重要な点だ。

この「違い」はどう扱うべきなのだろうか。私は、他人と違う捉え方というのは、実は誇るべき感覚ではないかと考えている。

なぜなら、違いを発見した瞬間こそが自分の存在が唯一無二のものであることの発見になるからだ。別の言い方をすると、他人と違うことを知って「自分の存在」を発見する。

自分と他人の違いが発見できない人は、自我を強く持つことができない。他人と違ってこそ、自分が重要になっていく。

他人と何もかも同じだったら、自分が生きている意味がない。他人と意見が違い、他人と捉え方が違い、他人と感受性が違うから自分が成り立っている。

逆に違いがあったということは、相手もまた自立した人間である証拠でもある。そう考えると、他人と意見や捉え方が違ったからと言って、悩む方が間違っている。

違って当たり前なのに、違うという理由で悩んだり怒ったり相手を変えようとするのは、まったく意味がない。

そうではなくて、他人と違うということで、自分が自立した存在であると認識すべきだし、他人も自立した人間であると認識すべきなのである。そして、相手と自分の違いに驚いたり感動したりして人生が豊かになる。

タイで、ある安宿の部屋に女性を招待したとき、部屋にヤモリがいたので、私はとても惨めになった。ヤモリのような「気持ちの悪い爬虫類」が這い回っているのが恥ずかしかった。

しかし、彼女の反応は違った。

「私はチンチョがとても好きよ」と彼女は言ったのだった。それも、堂々と誇らしそうに言うのである。(この話は電子書籍『タイでは郷愁が壁を這う』に収録した

違う捉え方がある。違う感覚がある。とても驚いたし、後で何度もこの驚きを反芻しながら、しみじみ「違うこと」の意味を考えたものだった。新しい感じ方を教えてくれた彼女には感謝している。



違う捉え方がある。違う感覚がある。とても驚いたし、後で何度もこの驚きを反芻しながら、しみじみ「違うこと」の意味を考えたものだった。



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