2017年10月30日、座間市のアパートで9遺体が発見されて白石隆浩という男が逮捕されている。この男は「首吊り士」という名前でツイッターに登録し、多くの女性を誘っていた。

この白石隆浩が会って殺していた女性たちは、みんな自殺願望を持っていたことが明らかになりつつある。

死にたいと願い、自殺を手伝ってくれる人をインターネットで探している孤独な女性たちが大勢いたのだ。そんな女性たちの存在が、この事件を契機に注目されるようになっている。

「自殺対策白書」によると、15歳から29歳までの若者たちの死因のトップは自殺であると記されている。若年層の死に自殺がトップに来るのは、先進国では日本だけである。

日本の社会の裏側で若い人たちが漠然と死を求め、そして夢遊病者のように死に歩み寄っているのだった。

白石隆浩に殺された女性の中には10代の女性もいた。

10代にして死にたいと思うのは、その多くが「いじめ」が原因だ。彼女たちは、自分の容姿や性格に自信がなかったり、社会に適合する能力に欠けていることを自覚している。

生きにくさを感じ、それを克服するよりも逃げたいと思っている女性が、究極の逃亡である「死」を求めて孤独にさまよっていた。


人はふと自殺を思いつき、たまらなく惹かれていく


世の中には、物事を前向きに捉えて問題や障害をひとつひとつ克服しながら生きていく人ばかりではない。毎日の出来事に傷つき、克服できず、追い詰められる人もいる。

先が見えない……。そういった気持ちになる。

そして、こんな自分が生きていても仕方がないと早くからあきらめてしまう。世の中は、克服できないほどの壁が立ち塞がっているように思うのだ。

いい加減に生きている人は悩まない。真面目な人ほど悩む。そして限界に苦しむ。

まわりの環境も、自分も変えることができない中で、「もう疲れた。生きたくない」と漠然と思っているうちに、それが次第に育っていき、何らかのきっかけで死を選ぶ。そんな人も確かにいる。

日本では約3万人近い人たちが自殺を選び、自殺未遂はその10倍もあると推測されている。死んでしまいたいと考える人は珍しくないということだ。生きる意欲を失っている。

そんな時、人はふと自殺を思いつき、たまらなく惹かれていく。疲れ果てた人にとって、永遠に楽になれるという事実はとても甘美な響きでもある。

死は、一歩踏み出せばそこにある。

手首を鋭利な刃物でさっと切れば失血死することができる。ロープやヒモを用意して、それを首にかけて自分の体重で締めれば窒息死することができる。

高いところに登ってそこから飛び降りれば墜落死することができる。あるいは、ホームから電車がくる寸前に飛び込めば轢死することができる。

たったの「一歩」で人は簡単に死ねるのである。先が見えず、必死でもがいて生きていくよりも、少しの勇気を出せば苦しみを一瞬に、永遠に、完璧に終わらせることができる。

たったの「一歩」で……。



たったの「一歩」で人は簡単に死ねるのである。先が見えず、必死でもがいて生きていくよりも、少しの勇気を出せば苦しみを一瞬に、永遠に、完璧に終わらせることができる。

張り詰めた糸がプツリと切れて「生」が終わる


年齢に関係なく、性別に関係なく、人は誰でも追い詰められる時がある。

何がきっかけになるのか分からないが、精神的におかしなことになることもあるし、生きているよりも死んだ方がマシだとぼんやり考える日もある。

自分は生きている価値もないと思うこともある。

生まれてきたのが間違いだったと口にする人も多い。たとえば、自分の生きる力の限界を感じて、肉親にこのように言う女性すらもいる。

「生まれてきてごめんなさい……」

生まれてきたことを謝るというのは、自分が生きている価値がないと言っているも同然だ。生まれてこなければ良かったというのであれば、死がその解決になってしまう。

そうした気持ちを強く持ってしまった女性は、生き続けることに意味を見出せない。だから、静かに自分を殺す。

夜の世界で生きている女性たちも、よく自殺している。

うまく生きられない結果、昼間の職場ではやっていけずに夜の仕事しか選べなかった女性もいて、夜に生きることに劣等感を感じている。

こうした女性は、自分がどうにもならない人生を生きているという息苦しさを感じ、心に闇を抱えている。常に死を意識している。

手首に切り傷を付けたような女性や、死を予感させるような口ぶりの女性や、自暴自棄になって薄幸を漂わせた女性がとてもたくさんいる。

もちろん、実際に自殺していく女性も何人もいる。

張り詰めた糸がプツリと切れるように「生」が途切れて、急に高層マンションから飛び降りたり、毒を飲んだりして自殺する。



生まれてきたことを謝るというのは、自分が生きている価値がないと言っているも同然だ。生まれてこなければ良かったというのであれば、死がその解決になってしまう。

死ぬのが怖いのではなく、生きるのが怖いと思う


絶望感の中で死を選ぶ女性は、怖くなかったのだろうか。死に対する恐怖はなかったのだろうか。

もちろん、誰にも恐怖がある。逡巡もある。「死にたい」と言いながら思い切れない。一度死んでしまったら、二度と生き返ることはできないからだ。

だから、「一緒に死んで下さい」とインターネットで孤独なメッセージを発する人も出てくる。

死ぬことが怖いと思っているうちは、まだ機が熟していない。本当に死に至る人は、そこからさらに深みに降りていく。死ぬのが怖いのではなく、生きるのが怖いと思うようになる。

そこまで至った人が、自殺を成功させることができる。

自殺未遂から生還したある女性は、「自殺を決意した時、急に解放的な気分になった」と手記に綴っていた。

自殺を決めた瞬間、「ああ、これですべてから逃れることができて楽になれる」と思って、怖いどころか逆にすがすがしくなったというのである。

生きるということに対して漠たる不安感を感じることは誰にでもある。あるいは、もう自分の人生が絶望の袋小路に入って抜け出せないと感じる人もいるはずだ。

そんな時、「死んだら楽になれる」と思った瞬間、死が甘美的なものになっていく。

女性が首を吊って死んでいる際の現場検証の写真がある。彼女は孤独の中で死んでいった。死に至る時、彼女は何を思ったのだろう。彼女はきっと、死の恐怖よりも死の解放感を最後に感じていたはずだ。

つらいこと、悲しいこと、嫌なこと、面倒なこと、傷ついたこと、疲れたこと、恥ずかしいこと、困ったこと……。

そんなものから死はすべて解放してくれると、彼女はそう思ったのだ。実際、死はすべてを終わりにしてくれる。だから、静かに死んでいった。

生きる苦しみから、解放されたかったのだ。

今も日本の底辺で、生きにくさを感じ、それを克服するよりも逃げたいと思っている女性が、究極の逃亡である「死」を求めて孤独にさまよっているはずだ。

「死ぬのは怖い。だけど死にたい」とつぶやきながら……。



死ぬことが怖いと思っているうちは、まだ機が熟していない。本当に死に至る人は、そこからさらに深みに降りていく。死ぬのが怖いのではなく、生きるのが怖いと思うようになる。


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