私は二十歳前まではごく普通に日本人女性に惹かれていたが、タイに向かってタイ女性と付き合うようになってから、好みがガラリと変わった。

私は褐色の肌のカモシカのような脚を持った女たちに惹かれるようになっていった。美の観点が日本人女性からタイ女性中心に変わっていった。

別に日本人女性が嫌いになったとか拒絶感が生まれたというわけではなく、好みが完全に「入れ替わった」のだ。以後、ずっと褐色の肌をした東南アジアの女性たちに惹かれていた。

その後タイからカンボジアへ、カンボジアからシンガポールへ、シンガポールからインドネシアへと拠点が移り変わるにしたがって、もう一度、女性の好みが劇的に入れ替わる体験をした。

シンガポールの邪悪な歓楽街であるゲイランで、私はひとりのインド圏の女性と知り合った。

そこでこれまでまったく関心がなかったインド圏の女性たちに深い関心が生まれ、やがて彼女たちのエキゾチックな容姿の虜になった。

その後、何年もインドを行き来することになるのだが、その中でインド圏の女性たちとなかなか性格が合わないことに気づき、再び東南アジアの女性に関心が戻っていった。


他人の同調圧力に屈していると大きな不幸に落ちる


「異性の好み」はとてもプライベートなものだ。プライベートであり敏感な部分だから、この部分で他人の同調圧力に屈していると大きな不幸に落ちる。

そもそも、異性の好みで同調圧力がかかるというのはあり得るのか。もちろん、あり得る。

メディアは「こんな感じの女性を好きになれ」と特定の女性をゴリ押ししているではないか。あるいは、ファッション業界は「こんな感じの髪型、こんな感じの化粧、こんな感じのファッションが好かれる女性です」と商業的な流行を作り出して、好みを型にはめているではないか。

こうした上から押しつけられたものを無防備に受け取って、世間がこれが良いと言っているのだから良いのだろうと、自分の好みよりも世間を優先することで同調圧力が生まれる。

女性の好みさえ、同調圧力で型にはめられるのである。

好みまで操作されるというのは馬鹿げている。しかし、メディアの洗脳能力はあまりにも強大なので、多くの男たちは自分の本当の好みよりもメディアが押しつけるものを選ぶ。

いくら同調圧力が強くても、自分の好みを優先しないと不幸になる。そうしないと、最後に自分の感情との折り合いが付かなくなって破綻してしまうからだ。

「最初から好きではなかった」という感情ほど、不幸で残酷な結末をもたらすものはない。それは悲劇をもたらす。

押しつけられて無防備に受け入れたものは、違和感を感じて当然なのである。

他人と違う「異性の好み」を持っている人は、それを誇るべきである。自分が分かっているということだからだ。

そして、人と違っても自分の好きなものを選ぶというのは、自分の好みを優先して自分で選んだということだ。それは、自分の感覚を信じているということを示している。

誰かが押しつけたものを受け入れたのではない。そして、他人のお仕着せではなく、他人の影響でもない。自分が選び取り、自分が感じ取り、その中で自分が見つけた。それが他人と違っていたら喜ぶべきことである。

歳を取れば取るほど、好みが違うものになる理由


他人とは好みがまったく違うということには、「確かに自分で選んだ」ということなのだ。本来であれば、安心感を持たなければならない。

同調圧力に屈していないことを意味しているのだから、それは大いに誇るべきことだ。

自分が歩んできた人生の中で、自分の価値観を持つ。それが他人とまったく違う価値観になっていても、自分の価値観のほうを選ぶ。それは、非常に重要な選択だ。

自分と同じ人生ではない人間の好みに、自分が合わせる必要はないのである。自分の好みは、自分で決めればいい。

一般的な話になるが、だいたいは20代までは、同調圧力の中で異性の好みを決めることが多い。まわりが騒いでいてみんなが好む異性を自分も好む。

だいたいは外見で決めることが多い。なぜならば異性と付き合った経験が浅くて内面を知ることができないので、外観が唯一の判断基準になるからだ。

しかし、やがて何人かの異性と付き合うようになって外観と共に相手の内面をも知ることができるようになったり、社会に出て仕事の能力や財政的な面の重要さが分かるようになってくると、外観が唯一の判断基準にならなくなる。

相手の容姿だけでなく、性格や、社会的な立場や、相手を取り巻く環境も含めて好き嫌いを判断するようになる。

多くの男女が、20代を過ぎたあたりから突然、好みのタイプが大きく分かれ始めるのは、20代から人間の人生が大きく分かれていくからだ。

20代の前半は、ある人はまだ学生だが、ある人はすでに社会で働いている。ある人はすでに挫折し、ある人はすでに成功している。そうやって人生がまったく違うものになる。

その中で自分独自の価値感が生まれ、相手を判断する要素が多くなる。判断基準の要素が増えれば増えるほど、当然だが好みのタイプが多様になる。

歳を取れば取るほど、「好み」はまったく違うものになっていく。重きを置く価値感が違うのだ。

他人が好きなものではなく、自分が好きなものが好きだ


しかし、同じ人生を歩んでいる人たちの「好みの異性のタイプ」は、似通うことになるのは、だいたい想像できる。

たとえば、普通の大学を出て、普通の会社に就職して、普通に日本で暮らしている人の「好みのタイプ」は、それほど極端に違っていない。

人生が似ていると、好みのタイプも似通う。同じ社会、同じ常識、同じ時間を共有しているのだから、似通って当然だ。

しかし、異質な方向に人生を走らせた人は、異性の好みもまた異質になっていく確率が高い。誰からも理解されないようなタイプが好きになったりする。

時には外国人と結婚したりするような人もいるが、だいたいは冒険的気質があって、普通の人生では満足できない人が敢えてそこに飛び込んだりする。

それでいい。

自分の好きなタイプまで、空気を読んで他人に合わせる必要など、さらさらない。むしろ、自分は何が好きなのかをしっかりと自覚している方が迷わなくて済む。

どんな異性を好きになるのかというのは「選択」なのである。押しつけられて選択するより、自分で追求して選択した方が納得できるはずだ。

私たちは、「今の自分」が本当にどんなタイプが好きなのか、深く考えることはほとんどない。さらに自分独自の「好き」を追求しない。

しかし、思い切り「自分の好き」を追求すれば、見えてくるものが違ってくる。覚醒できる。

他人に合わせるのではなく、常に自分の「好き」に合わせる作業をするのは大きな意味がある。これは自分を取り戻すために非常に重要な作業である。

絶対に、他人の価値観に合わせてはいけない。他人は、自分と同じ人生ではなかったのだ。合わせる必要はまったくない。

私自身はそうやって生きている。私は、いつも自分の好みに忠実だ。他人が好きなものではなく、自分が好きなものが好きだ。他人の好みなど、まったくどうでもいい。



映画の中で娼婦を演じるパリンイーティ・チョップラ。私はこのような雰囲気の女性が好きで、あまりにも好き過ぎてインドに何度も行くようになってしまった。



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