嬴政(えい・せい)という名の男は、紀元前246年に中国戦国時代を制して、それ以後は「始皇帝」と名乗って絶対権力を欲しいがままにして生きた。

万里の長城の建設も、この始皇帝が住民の莫大な犠牲の中で行ったものである。

絶対権力を手に入れた「始皇帝」が極度に恐れているものがあった。それは「死」だった。死んでしまったら手に入れた権力など何の意味もない。

だから、始皇帝は数千人もの家臣に「死なない薬を探し出せ」と命令した。

それで、不老不死の秘薬は見つかったのか。もちろん、見つからなかった。結局、始皇帝はその当時に「聖なる薬」と言われていた水銀を飲んで、わずか49歳で死んでいる。

死を恐れ、死を遠ざけようとした絶対権力者は、結局は死を遠ざけるどころか逆に死を招いて早死にしたのだった。そして、始皇帝の王朝もまた始皇帝の死と共に急激に崩壊していった。

滅び。死……。

絶対権力であろうが何だろうが、すべての存在は「滅び」を避けることができず、「死」から逃れることもできない。それは絶対的な運命である。


どんなに強大であっても、必ず「衰退」する運命だ


不老不死を求めながら手に入らず、秘薬と思った水銀を煽って死んでいき、統一した帝国をも崩壊させた始皇帝は、どんな存在であっても永遠ではないということを示唆している。

どんな帝国も長い歴史の中で必ず凋落し、どんな有能な人物であっても長い人生の中で必ず影響力を失って没落する。

全世界を征服するのではないかと思うような権力を持った人であっても、その権力はいつまでも続かない。

必ず人は求心力を失っていき、やがてはかつての権力も手放すことになっていく。時代は変わり、世の中は移り、人は静かに老いて死んでいく。

どんなに要領良く生きた人であっても、最後の最後にやってくる「死」からは逃れることは絶対にできない。

何かをしても、何もしなくても、時は容赦なく流れて、私たちは老いて死んでいく。同じ形を保っていられるものは、この世にはひとつもない。すべては崩れていく。

持っていた力、持っていた能力、持っていた権力、持っていた栄光はみんな消える。これは、どんなに時代が変わっても、唯一、変わらない法則でもある。

私たち日本人は、これを「諸行無常」という言葉でくくっている。日本に君臨した「平家(へいけ)」すらも歴史の塵となって消えていったはかなさを表す言葉であった。

天下を制した組織・家族・個人は、その力がどんなに強大であっても、必ず「衰退」する日が来る。

栄光は忘れ去られ、趨勢は消え、影響力はまったく喪失して、やがて力尽きる。

事実、世界に君臨したローマ帝国も、全世界に植民地を持ったスペインも、7つの海を支配したイギリスも、すでに力を失って目立たない「普通の国」と化した。

長い時間をかけながらじわじわと衰退が続いて、最後に勢いを持った他の国に取って変わられるのである。



始皇帝。絶対権力であろうが何だろうが、すべての存在は「滅び」を避けることができず、「死」から逃れることもできない。それは絶対的な運命である。

坂道を転がるようにして衰退していく日本の姿


経済大国としての日本はどうなのだろうか。

戦後の成長期から怒濤の勢いで国を豊かにしていった日本も、1989年の絶頂期を最後にして、坂道を転がるようにして衰退していくを余儀なくされている。

今後、日本は再び復活するのか、それとも日本人が消え去るまで衰退していくのかは誰にも分からない。できることならば、再び復活して強い国になって欲しいとは思う。しかし、必ずしもそうなるかどうか分からない。

場合によっては風の前の塵(ちり)のように、歴史に吹き飛ばされて消えゆくかもしれない。平家物語がこのように言っているのを私たちは知っている。

「たけき者も遂にはほろびぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」

諸行無常とは、力ある者も滅びゆくという現象を、達観と共に認める現実主義の視点でもある。その視点は、ずっと日本人の心の中に残されてきた。

そして、日本人は滅びゆくことに対して覚悟を持ち、滅びゆく者に慈しみや共感を感じるようにもなっていった。

他の国では、力を失って第一線から去ろうとする者に共感を感じる者はいない。敗者に関心もなければ、共感もない。滅び行く者は「負け犬」と呼び捨てにされて、外に叩き出されるだけの存在だ。

しかし、日本人は他の国とはまったく違う視点を持つ。それは滅びゆく者に共感を持ち、その存在に慈しみを持つという独特の視点である。

運命を受け入れる。滅びを受け入れる。そして、滅ぼうとしていく者に対しても共感を持つ。なぜか。それは、自分もまたいつか滅ぶ存在であることを認識しているからだ。

これを「滅びの美学」という。

滅びの美学を持つ日本人は、いよいよ助からないという最期を迎えたとき、そこで命乞いをしたり、泣きわめいたり、逃げ隠れして弁解してあがくことをしたくないと思う。

最期は言い訳もなく、死を覚悟して、美しく散って行こうとする。自分の人生に訪れた最期を、諸行無常の精神で、静かに受け入れて、静かに去っていこうとする。

桜が美しく散るように、最期は美しく散りたいと願う。

果たして、自分がそのように最期を迎えるのかどうかは分からなくても、それを理想として日本人が無意識に持っているものであるのは間違いない。




一瞬一瞬を大事にする「一期一会」という言葉


「死」が重要なのは、それこそがこの世で唯一絶対の平等の現象だからである。人は死を避けることができない。どんな権力者も、どんな金持ちも、どんな超人的な存在も死ぬ。

どんな人生を送るのかは人それぞれ違うのだが、死ぬことについては、たった1つの例外もない。

自分自身も、自分の家族も、自分の愛する人も、遅かれ早かれ死んでいく。

いつ、どこで、どのように死ぬのかは誰にも分からないが、「死を迎える」ということだけは分かっている。

それに気付くと、私たちは「もののあわれ」を感じることができる。私たちは、はかない存在だったのだ。みんな、いつか消え去っていく。

私たちがどんなに大切にしている物も、どんなに慈しんでいる人も、みんな消えていく。永遠に生き残る物はない。美しいものも枯れ、強い人も弱くなり、若い人も老いる。そして、最後に死んで存在が消えてしまう。

大切な人が消えてしまうということに動揺を感じない人はいないはずだ。しかし、人生を長く生きる中で、好きな人を失うという悲しみは必ず経験する。

手放したくないものも、手放さなければならない日が来る。別れたくない人とも、別れなければならない日が来ることも必ずある。愛する人すらも「死」という別れで100%失うことは分かっている。

それだけではない。私たちは自分自身をも失うのだ。死なない人は誰もいないのだから、私たちの人生も必ず終わりがくる。もがいてもあがいても死から逃れられない。

だから出会いを大切にして、一瞬一瞬を大事にする「一期一会」という言葉も生まれている。これは千利休が芸術としてもたらした茶道の心から来ている。

「あなたと出会い、ふたりのこの時間は、一生に一度だけのものかもしれません。だから、お互いに真心を尽くしましょう」

それが一期一会の心だ。

強い者も滅んでいく。滅んでいく者も美しい。滅んでいくから寂しさを感じる。滅んで行くから出会った人を大切にする。日本人の心の原点は「滅び」の中にあるのだ。

そして、この「滅び」とは存在が崩れて消えていくことを意味しており、存在の死を意味している。

あなたは滅びを意識したことがあるだろうか。もし、滅びの中に「もののあわれ」を感じたとき、あなたは日本人としての血を受け継いだことになる。




誰もが生命の喜びを感じる春に、はらはらと散っていく桜の花びらに、日本人は「もののあわれ」を感じた。桜が愛されるのはその美しさの裏側にある「はかなさ」があるからだ。突き詰めると、散っていく花びらに日本人は滅びと死を見出している。死はこの世で唯一絶対の平等だ。



〓 関連記事