あくまでも私自身の感覚だが、時間的余裕のある時期と、余裕のない時期では、時間を捉える心理的感覚が違う。これは、ずっと昔に気付いたことだった。

たとえば、「時は流れる」という言葉がある。

この言葉は、自分の人生をゆっくりと振り返り、過去に想いを馳せ、懐かしい顔をひとりひとり思い出すことのできる時間的余裕のある時だけに感じることができる。

しかし、時間的余裕がまったくなくて、日々を生きるのに精一杯で過去を振り返る余裕などまったくない時期は、「時が流れた」という情緒的な感覚を持てない。

自分の意識の中で過去と現在が分断されている。多忙の中で過ごしている時、時間の感覚は情感的なものではないのだ。

「時は流れる」どころか、あっとう言う間に「消え去る」ものだと感じるようになっている。忙(いそがしい)という漢字は「心を亡くす」から来ているとはよく言われるが、本当にその通りだと思う。

心を亡くすほど忙しい時は私から「時は消え去って」いる。時間的にも心理的にも余裕がある時は「時は流れて」いる。この違いはちょっとしたことなのだが、とても大きいように思っている。


時間の流れを遅く感じるようにすることができる?


人間の人生は「生老病死」というサイクルの中にある。これは、仏教の開祖であるブッダが、これによって人間は平等であると悟った概念である。(平等は存在しない。しかし、全人類は「四苦」で平等となる

多くの人は自分が老いるのを感じる前に、自分の親が老いるのを見て、毎日毎日は気付かなくても時間は確実に刻まれて過ぎ去っていることに気付く。

そして、いったん身近に「老い」を感じると、誰もが我が身を振り返って、自分もまた老いていることに気付いて急に不安に思うようになる。

「歳を取れば1年が経つのが早い。あっと言う間に時が過ぎ去っていく」

人々は昔からそのように言っている。若いうちはそれを感じない。しかし、1つ1つ歳を取っていくと、やがて本当にそれは誇張でも何でもない感覚なのだと気付く。

その時々によって、年月の進み方が異様なまでの早さで愕然としてしまうこともある。ゆったりとして時が流れたのではなく、あまりにも忙し過ぎて「時が消え去ってしまった」ということだ。

時が流れたという感覚ではなく、時が消えていると思う時、私は自分が時間に追われていることを知る。消えた時間は、もちろん誰が何をどうしても取り戻すことはできない。

では、せめて時間の流れを遅く感じるようにすることはできるのだろうか。そう思う時、私はいつもアインシュタインが言った言葉を思い浮かべてしまう。

時間は感覚によって伸びたり縮んだりするというのは、アインシュタインが的確に説明している。

「可愛い女の子と1時間一緒にいると、1分しか経っていないように思える。熱いストーブの上に1分座らせられたら、どんな1時間よりも長い」

アインシュタインらしい説明に苦笑いが出るが、確かにそういう心理は理解できるので、とても正鵠を得ているように思う。しかし、ふと疑問をも感じる。

だとすれば、時間を遅くするためには「積極的に嫌なことをする」という結論になるのだろうか……。

「記憶すべき過去」を恣意的に選択している


やりたくないことをする時間、苦痛を感じる時間、気まずい時間はとても長く感じる。ということは、長く生きたという実感を持つには、積極的に嫌なことをする人生を送ればいいということなのだろうか。

これは、何となく私たちの実感と違うものを感じる。

アインシュタインの言っていることは間違いない。しかし、長い人生を振り返ってみると、実はアインシュタインの言っていることと逆のことが起きる。

嫌なことをやっていた時間は失われた時間となり、好きなことをしていた時間は記憶に残って永遠の時間として残る。

あとから振り返ってみると、実は「可愛い女の子と1時間一緒にいる」方が時間は長かったように感じるのである。

好きなことをしていると、その瞬間は「時間が過ぎるのは早い」と感じる。しかし、あとから振り返ると「その時間は永遠だった」ように感じる。

これは、面白い現象だ。

「時が消え去る」という観点の中で見るとアインシュタインの言っていることは正しいのだが、「時が流れる」という観点の中で過去を振り返ると物事が逆になっていく。

時間が長く感じる、短く感じるというのは、出来事を記憶する「脳の働き」に関係している。過去は自分の頭の中にある。つまり、脳が記憶を司っている。

では、脳は過去を機械のように正確にデータベース化しているのだろうか。いや、脳は「記憶すべき過去」を恣意的に選択しているのである。

何でもかんでも記憶しているのではなく、取捨選択をしている。結論から言うと、脳は以下のような取捨選択をしていることが分かっている。

印象に残った出来事は強烈に記憶する。新しい体験、新しい習慣は記憶する。嬉しかったこと、楽しかったことも記憶する。自分がやりたいことをしている時間も記憶する。

しかし、退屈な日々、毎日同じような日々は記憶しない。そして、ルーチン作業も記憶しない。

とすれば、印象に残った出来事がたくさんあればあるほど、あとで振り返った時、「あの頃は永遠だった」と感じるようになる。



印象に残った出来事は強烈に記憶する。新しい体験、新しい習慣は記憶する。嬉しかったこと、楽しかったことも記憶する。自分がやりたいことをしている時間も記憶する。

記憶に残らない日々は「なかったこと」にされる


つまらないことばかりしていたり、退屈で日々を持てあましていたり、どうしようもないまでのルーチン作業をしている時の記憶は、脳からすっぽりとその記憶、その日常が抜け落ちてしまう。

記憶に残らない日々は脳から見ると、いずれは「なかったこと」にされる。過去を振り返った時、その面白くなかった日常の部分がごっそり消えているのである。

仮に、数年もやりたくないことをやりながら日々を繰り返していたらどうなるのか。当然、その退屈で面白みのない記憶は脳に記憶されない。では、その状態で過去を振り返るとどうなるのか。

月日が過ぎ去った、いや消え去ったという事実はあるのに、脳に記憶されているのはスカスカの状態のままである。

小学校の頃の友達と遊んだ記憶はしっかりと残っているのに、授業中のことは完全に自分の脳裏から消えているのは、本当のことを言えば、それがあまりにもルーチン化された記憶であり、しかも退屈だったからなのだ。

毎日、同じことばかりしていたり、日々の生活がルーチン作業になっていたり、一日の大半を何も考えないで過ごしたり、新鮮な驚きもなく、新しい出会いもなかったりすると、その時間は過去を振り返った時には記憶に残っていない確率が高い。

やるべきことを追求しないで退屈な日々を過ごしていると、その一瞬一瞬はうんざりするほど長い。しかし、あとで振り返るとその記憶は欠落するので、何もしないで歳を取ったことを痛感する。

やるべきことをやっていればよかったと思いながら、結局は何もしないで時間だけが急激に消えていく。そして消えた時間は取り戻せないので、自分が追い求めていたはずのことを何もしないまま老いることになる。

そしてある日、「時間が消え去った」と思うのだ。

人生は何でもかんでもできるほど長くなく、私たちはそんな時間を与えられていない。だから、本当に自分のやりたいことを求めて手に入れていく必要がある。

パリ20区の貧しい地区で生まれ、売春宿で育ち、やがて路上で歌うようになってフランスを代表する大歌手に育っていったエディット・ピアフは一途な女性だったが、老いた彼女はある時、ステージで歌の合間にこう言った。

「女性よ、恋しなさい」

「可愛い女の子と1時間一緒にいると、1分しか経っていないように思える」というアインシュタインの言葉と、「女性よ、恋しなさい」というエディット・ピアフの言葉……。

それは、どちらもその瞬間は短い時間であっても、時の流れの中で自分を振り返った時に永遠の時間を手に入れるためのものだと私は理解した。




パリ20区の貧しい地区で生まれ、売春宿で育ち、やがて路上で歌うようになってフランスを代表する大歌手に育っていったエディット・ピアフは一途な女性だったが、老いた彼女はある時、ステージで歌の合間にこう言った。「女性よ、恋しなさい」



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